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母と息子
弘子は昼過ぎ、ガラガラに空いた外回りの山手線に乗ったはずだった。ところが、どういうわけか今は夕方の帰宅ラッシュで車内はぎゅうぎゅうに混み合っており、後から乗り込んできた人に押され、前に立つ女性のバッグが、座っていた弘子の目の前に迫ってきた。何気なく、バッグについている丸いストラップを目で追うと、そこには、赤ちゃんを抱く母親の絵が柔らかくデフォルメされた絵が描かれていた。妊娠中を示すマタニティ・バッジである。その意味にようやく気付いた弘子は、弾かれたように立ち上がった。
「あ、あの、ごめんなさい、全然気づかなくて……。あの、どうぞ」
慌てて席を譲ると、おそらくつわりがきついのだろう。お腹はそんなに目立たないが、ハンカチで口元を押さえた青白い顔の若い女性は、ホッとしたように「すみません」と小さくつぶやきながら座った。
時間的に言って、どうやら三度目の新宿だ。弘子は乗り換えのためにようやく山手線を降りた。ここからは中央線快速に乗る。
お茶の水で中央線を降り、大学病院に向かいながら、尚樹に会いに行こうとしているこのことが、ひどく間違っているような気がしてならない。
尚樹に会いに行く前に、自分にはやらなければならないことがあるのではないか?
尚樹の顔を見てから決めようとするのは、卑怯なのではないか?
いや、そもそも自分はいったい、何をどうしようとしているのか?
尚樹を救いたいという気持ちなら、信吾に劣るとも思えない。心臓移植が必要だというなら、喜んで自分の心臓を差し出すだろう。しかし、尚樹を救うためには、己が産んだ子どもを差し出さなければならないと信吾は言う。
―――いったい私は、なんという生き物なのだ。
信吾に話を聞いて以来、ネットで救世主きょうだいについて調べた。それ以外にも様々な資料を漁り、救世主きょうだいの人工授精を積極的に行っている、ボストン病院の資料も取り寄せた。そして、弘子が得た結論は、尚樹の現状も考慮に入れると、彼を救う手だては、もうそれ以外ないように思える。
―――しかし。
思考はそこで堂々巡りを始める。山手線が延々と同じ路線を巡るように。
もう何度も尚樹の入院する病棟までやってきては引き返す。弘子はそんな不毛なことを繰り返していた。今日も尚樹のいる病室の寸前まで来て、やはり引き返そうと踵を返した途端、後ろを歩いていた制服姿の女子高生にまともにぶつかってしまった。
「あ!」
女子高生は思わず尻餅をついてしまい、その弾みに手に持っていた荷物をぶちまけてしまった。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫?」
ばら撒いたコミックをあわててかき集め、びっくりしている少女に手を貸すと、彼女はマジマジと弘子の顔を見つめて、おもむろに言った。
「もしかして、辻本尚樹君のお母さんですか?」
「え……?」
なぜひと目見ただけで、この少女は私の正体がわかったのか? 尚樹が小さいころ、家によく遊びに来ていた友達に、この少女がいただろうか? めまぐるしくそんなことを考えていると、少女はニコニコと言った。
「面差しが何となく似てるし、私、何度もここでお見かけしたんです。ここまで来ては引き返すっていう……。最初はなんだろうと思いましたけど、やっとあなたの正体がわかりました! あ、私、辻本君の中学の時からの同級生で、的場奈々って言います」
弘子は見られていた気恥ずかしさで、何か言い訳しようとうろたえていると、奈々は弘子の手を取り、憶すことなく病室に入ってしまった。
「辻本、お母さん来てくれたよー!」
「え?」
尚樹の目が驚きに見開かれる。
その眼を見つめ返すことができず、弘子はとっさに頭を下げた。
「あ、あの、ご無沙汰してます」
「えーー、お母さん、それ変!」
弘子のそんな態度を見て奈々は明るく笑いながら、尚樹に先ほどのコミックを渡すと、
「じゃあ私はこれで。これから塾なの」
と言ってさっさと病室から出て行ってしまった。
奈々が行ってしまった後、気まずい沈黙で弘子と尚樹が向き合っていると、出て行ったはずの奈々がすぐに引き返してきて、病室の入り口で顔だけ覗かせ、無邪気にニコニコと笑いながら言った。
「会話の場繋ぎ必要?」
尚樹が思わずというように吹き出した。
「いいよ、さっさと帰れよ。塾なんだろ。あ、マンガありがとな。今度は最新刊まで持ってきてくれよ」
尚樹のその言葉に「うん!」と返事すると、奈々は弘子にペコリと頭を下げて今度こそ本当に帰ってしまった。
無邪気なのか無神経なのか、そんな奈々が勢いのままにその場に置き去りにした空気は、丸く明るく澄んでいた。
「かわいい子ね。彼女?」
「そんなんじゃないよ。中学時代からの友達。俺が退屈しないようにってマンガ持ってきてくれるんだ」
「そっか」
「……父さんから聞いたの?」
「ええ。私、何にも知らなくて……ごめんなさい」
「いいよ。どうせ父さんが何も言わなかっただけだろ?」
尚樹は過酷な治療の痕跡をあちこちに残していた。頭は流行のしゃれたニット帽で隠していたが、こめかみから覗くわずかな髪は、もうあまり頭皮に髪が残っていないことを物語っていた。しかし、弘子が一番堪えたのは、白茶けた顔色に隈を浮かせ、この年頃の男の子の頬が、ゲッソリとやつれていることだ。パジャマから出ている手首は折れそうなほど細い。こうして座っているだけでも、尚樹は辛いに違いない。
「それなに?」
尚樹が、弘子が膝の上に乗せた紙袋に目を留めた。
「……え? あ、あぁ、何でもないの」
弘子はそういうと、中身を見られるのを嫌がるように、紙袋の口をしっかり手で握って塞いでしまった。
「なんだよ、隠されると余計に気になるじゃん。見せてよ」
「いいのよ、何でもないんだってば」
「じゃあ、なんでわざわざ持ってきたんだよ。見せてよ、ね?」
上目づかいにそうねだる尚樹の顔に、昔の面影がよぎる。
「……笑わないでね」
弘子がしぶしぶ差し出した袋から出てきたのは、水色の毛糸で編まれた手編みの帽子だった。頭頂部にはポンポンまでついている。
尚樹は自分の目の前に帽子をかざし、「ダサッ」と言った。
弘子は顔を赤らめて「だから嫌だったのよ」と言いながら、慌てて帽子を取り戻そうとして手を伸ばすと、尚樹が笑いながら素早く背中に隠してしまった。
「やだ、もう、返して、尚樹ったら! あたしったら、あなたがまだ小学生のつもりでポンポンまでつけちゃって、今かぶってるニット帽の方が断然かっこいいし、恥ずかしいからお願い!」
思わずムキになって取り返そうとする弘子の手を、笑って交わしながら、尚樹は水色の子どもっぽい帽子をサッとかぶって見せた。
「似合う?」
おどけて目まで隠すよう深くかぶりながら、尚樹がポーズをつける。
「似合わないわよ。さっきのニット帽の方が百倍かっこいいわよ」
「――また来る?」
目を隠したままさりげなくそう問う尚樹のその一言に、弘子は虚を突かれて言葉に詰まった。
―――そうだ。信吾に会ったあの時から、私には自分がどうするのかわかっていた。
かつて、弘子が尚樹の元を去ったのは、それが尚樹を健やかに生かすことだと思ったからだ。それが正解か否かはわからない。そして、今まさに自分が下す決断は、更に間違いを重ねることになるのかもしれない。しかし、尚樹を見捨てられるわけなどないのだ。
「――ごめん、いいんだ。母さんにはもう家庭があるんだもんね」
「―――来るわ」
「え?」
「必ずまた来るわ。これから少しバタバタするから、すぐにはこれないかも知れないけど、落ち着いたらもっと頻繁に来る」
弘子の言葉に籠る、静かだが強い何かを感じ取ったのか、帽子を持ち上げ、目を覗かせて不思議そうに尚樹が言う。
「――無理しなくていいよ」
その言葉に微笑みだけで応え、弘子は静かに病室を後にした。
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