プロローグ

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プロローグ

三年前————  辻本尚樹がベッドで目を覚ました時、どこかの水面から反射した午前の光が天井でちらちら揺れていた。  なんとなく光源を追って枕に頭を乗せたまま首を巡らせると、窓際の水槽を両手で軽く揺らせながら、水槽に向かって何やら話しかけている養護教員の片瀬の小柄な背中が見えた。 「ほい、餌だよ~。食べ終わったら水取り換えてやるからしっかりお食べ~」 ――ああ、そうだった。保健室だ、ここ。二学期の始業式早々、体育館で倒れたんだっけ、俺。  尚樹は、絶望的な気分でここに至るまでの状況を思い出した。  14歳の中学二年生などまだまだガキだ。男という漢字の下に子がつく。そんな年齢だ。それは自分だって自覚している。しかし、小さな子どものようにお姫様抱っこで運び出されるのは、オトコとしてのコケンに関わると思う。そんな思春期真っ盛りなのだ。ましてやそんな情けない姿を、最近意識し始めた女子にまともに見られたとあっては、絶望感はますます深い。  貧血のせいでグルグル回る視界の中に、一瞬、少し驚いたように自分を見つめる的場奈々の白い顔を見たような気がする。  間違いなくサイアクだ。 「あーもー先生、俺、どのぐらい寝てた?」  イタイ記憶を振り払うようにベッドから起き上がった尚樹の声に、ようやく水槽から片瀬が顔を上げた。 「あら、もう目が覚めた? まだ寝てていいのよ。お父さん、もうじきおみえになるわ」 「え、親父呼んだの? なんでだよ、大げさだよ」  起き上がってベッドから足をおろし、上履きをつま先にひっかけて立ち上がろうとしたが、不覚にもよろめいてしまった。 「ほら、寝てなさい。今日はお父さんと一緒に、おとなしく病院に行くのね」  小柄な女教師に片手で尚樹がベッドに押し付けられたとき、保健室のドアが開けられ、大柄ないかつい男がぬっと顔を出した。 「よう、尚樹、生理痛だって?」  父親の辻本信吾である。デリカシーのカケラもない男なのだ。 「出たっ。来たと思ったらこれだよ」  盛大に顔をしかめて尚樹は頭を抱えた。  尚樹のそんな悪態には慣れっこなのか、「人をお化けのように言うな」とかなんとか言いながら、信吾は片瀬に意外に人懐こい笑顔で頭を下げた。 「いや、先生、お世話になりました。連れて帰ります」 「いいよ、親父だって仕事あるだろ。俺、このまま一人で帰るからさ。てかもう大丈夫だから、今から授業出るよ」 「あ? かわいい生徒を置き去りに、せっかく俺が来てやったのに、このまま手ぶらで帰れるか」 「どーいう理屈だよ。帰れよ、手ぶらで。そしてしっかり仕事しろよ、教師なんだから」  こう見えて信吾は、都内の公立高校の教師なのである。 「まぁまぁ、辻本君、あなた最近疲れてるみたいだし、気分悪くなって保健室来るの、一学期の分入れるともう三度目でしょ。ちょっと心配だから、この機会に一度ちゃんと検査してもらいなさい」  片瀬が苦笑しながら信吾の肩をもつ。 「いーよもー、なんだよ、ただの寝不足だってば」 「つべこべ言うな。あんまりごねると、弁当のおかずは毎日白身魚のフライにするからな」  尚樹は白身魚のフライが苦手だ。 「あ、週に5回は夕飯作ってる俺にそれ言う? そうか、そんなら俺にも考えがある」  もちろん、尚樹だって信吾の苦手なモノはきっちり把握している。尚樹の好物の青魚だ。親子だからといって、苦手なものが一緒だとは限らない。 「なんだと? あとでゆっくり話し合う必要があるようだな。とにかく、今日は帰るぞ。もう病院の予約しちまったんだ」  女手のないこの父子は、家事を分担しながら男二人で暮らしている。  片瀬は、手回しのいい信吾の言葉にホッとした。このままなし崩しに家で静養させるだけでなく、尚樹にきちんと医師の診察を受けさせるつもりなのだ。信吾は信吾なりに、息子の最近の体調に思うところがあったのかもしれない。  そこへ「失礼します」と入ってきたのは、尚樹のスクールバッグを抱えた的場奈々だった。 「あら、絶妙のタイミングね」  片瀬が奈々のタイミングの良さに笑顔を見せる。 「辻本、大丈夫?」  奈々が片瀬にニコッと笑顔を返し、誰だろうという顔で信吾にペコリと頭を下げながら、尚樹に心配顔で様子を尋ねるという器用な百面相を見せる。 「なんでおまえが荷物持ってくるんだよ」 「なによ、保健委員だからよ。悪い?」  ムッと気を悪くしたような奈々の表情は面白いほどクルクルとよく変わり、それだけに何を考えているのか非常にわかりやすい。  もちろん、奈々がここへ現れたのが悪いわけがない。いやむしろ、尚樹にとっては他の誰が来るより嬉しい。ただし、女子のように貧血で倒れたなどという情けないシュチュエーションではなく、口と人相と、ついでに性格の悪い親父がいなければの話だ。  つい口が滑ってしまった言い訳を、尚樹がモゴモゴと口の中でつぶやいていると、親父のでかい掌が尚樹の後頭部をスパンと小気味よく叩いた。 「なんだおまえ、その言いぐさは。せっかくおまえの小汚いバッグ持ってきてくれた女子に」 「イテ―な! 小汚いは余計だ!」  叩かれた頭を押さえながら、照れ隠しに尚樹が信吾を睨む。 「すみませんね、こいつ、誰に似たのか口が悪くて」 「間違いなく親父だよ!」  その父子の軽快なやり取りに、信吾を父親だろうと察した奈々はもちろん、片瀬までが「あはは」と声を上げた。 「いいんです。辻本君、口は悪いけど、優しい人だってみんな知ってますから」  あっけらかんとそう言って、バッグを差し出す奈々の笑顔に、つい心を鷲掴みにされる父子なのだった。  校舎を出て駐車場まで向かう短い道のり、信吾が尚樹をつつきながら言った。 「いい子だなー。しかもかわいいし」 「やめろよ、エロ教師。訴えられるぞ」  顔をしかめて尚樹が言う。 「バカ、おまえ、大人の俺が中学生相手にエロを感じるか」  そう返しながら、信吾の目が何かを察したように細められた。 「――ふーん、エロい目であの子見てるのはおまえなんだろ?」 「なっ、何言ってんだバカ! そんなんじゃねーよ!」 「いいんだいいんだ。中学生男子なんかこの世で一番情けない生き物なんだからしょうがねえ。うん、俺にも覚えがあるから照れるな」 「親父と一緒にするな!」  ふざけて小突き合う、大柄でたくましい信吾と、成長期特有のひょろひょろと華奢な尚樹の後ろ姿を見送る片瀬の眉間は、わずかに不安を滲ませている。  片瀬の記憶には、難病で入院生活を余儀なくされた、かつてこの中学に通っていた、ある女生徒の青白い顔が思い浮かんでいた。  疲れやすく、微熱が続き、時折鼻血や歯茎からふいの出血があり、腕や脚には、身に覚えのない痣ができていた。その女生徒と同じ症状が尚樹に見受けられるのだ。彼女はその後、成人式を迎えることはなかった。 ――杞憂であってほしい。 「ね、先生、辻本ってお母さんいないの?」  ふいに問いかけられて、物思いから引き戻された片瀬の隣では、一緒に父子を見送っていた奈々が首をかしげている。 「え? どうして?」 「だって、こういう時ってふつうお母さんが来るでしょ?」 「さあね。生徒の個人情報を、あたしの口から簡単に漏らすわけにはいかないわ」 「ふーん。辻本、お母さんについていかなかったんだね。それとも、お母さんの方が辻本置いてっちゃったのかな」 「ちょっと、人の話聞いてる?」 「聞いてるよ。だって、普通亡くなってるなら亡くなってるって言うし、何かの用事でお母さんの都合が悪いだけなら、わざわざ個人情報云々なんて言わないでしょ?」 「……う」  奈々の回転の良さに思わず舌を巻いた。 「まぁ、人にはそれぞれ事情があるんでしょ。詮索しないの。さ、あなたも授業に戻りなさい」 「はーい」  信吾が運転する小型のミニバンが、左折のウィンカーを点滅させながら、校門を慎重に出て行った。
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