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贈り物はたからもの
「お父さんは何の本を読んでいるの。普段やらないことをやるとばちがあたるよ」
「うん お寺の前に店を構えて仏教のことをわからないのも恥ずかしいからな。門前の小僧習わぬ経を読むって言うんじゃない」
定子は何十年と連れ添った亭主が普段見慣れないことを始めたので、びっくりして尋ねた。
正男は正法寺から聞こえるお経が気になっていた。
「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」と言っている。なむあみだぶつとは何かを調べようと辞書をひっぱり出したのだ。
「なむあみだぶつ」とは漢字では「南無阿弥陀仏」と書く。その意味は「わたくしは、はかりしれない光明、はかりしれない寿命の阿弥陀さまに従います」とあった。あっそうかと思った。昔学校で一遍上人が「なみあみだぶつ」といえば成仏できるととなえたことを習ったことを思い出した。
もうひとつ気になっていることがあった。正男は自分の名前と寺の名前に「正」の字がつき、興味を持ち、調べ始めた。
「仏教では最終目的を苦しみから解放され、安らかな人生を歩むために8つの行動が必要とし、これを八正道というとある。
以下並べると次の通り。
(1)正見(しょうけん)…正しい見解、人生観、世界観
(2)正思(しょうし)…正しい思惟、意欲
(3)正語(しょうご)…正しいことば
(4)正業(しょうごう)…正しい行い、責任負担、主体的行為
(5)正命(しょうみょう)…正しい生活
(6)正精進(しょうしょうじん)…正しい努力、修養
(7)正念(しょうねん)…正しい気遣い、思慮
(8)正定(しょうじょう)…正しい精神統一
正男は親からどうして正男という名前をつけたか聞いたことがなかった。父は正男が18歳のとき病死した。親は八正道を実践して生きる男に育つようにと願って命名したのだろうと勝手に考えた。
正男は大田原の町の動きを知るようになった。自営業で、直接商売に関係なかったが、歴史に興味を持つと、江戸時代の様子を調べた。ほとんど調べ終わり、地理に目が向いた。もちろん女房に釘をさされているので、近間の蛇尾川を中心とした那須野ヶ原に限って調べた。
夏の暑い日だった。石林から遅沢、西富山を歩いた。乃木神社の後ろの湧き水はこんこんと湧き出していた。槻木沢付近の蕪中川(かぶちゅう)はきれいな水が流れていた。蕪中川はもともと、頭無(かぶなし)川と言われ、水源がいくつもあって、どこが本川であるか不明のため、そんな名前がついたという。この川は東北本線の南側を南下し、大田原市街地へ南下することなく、権現山の南を東に曲がり、今泉を経て町島で蛇尾川に合流している。
蕪中川という珍しい川を見て、さらに驚いた。熊川という川だった。この川を調べようとの思いになった。
正男は熊川の上流を行けるところまで行ってみようと出掛けた。栃木県の北那須浄水場があった。そこをさらに上った。そこからは車で行けず、歩きだった。熊川は小巻川と大巻川が合流したところから熊川となることがわかった。大巻川からは水を取水し、それを百村、箭坪を通って、さらには方京、島方、沼野田和まで延び、高林、東那須野の村々に水路があったことがわかった。この水路は「巻川用水」として、江戸時代から昭和三十年代まで飲み水として使われ、同用水は幕府の許可を江戸時代はじめに造られたことがわかった。蛇尾川が上流で大蛇尾川と小蛇尾川に分かれていて合流してから蛇尾川となっているのと同様に熊川は小巻川と大巻川があり、合流して熊川になる。それが、大田原の水口付近で蛇尾川に合流する。こんな偶然があるのか。しかも、熊川は山から平場に出る百村付近で、川の表面から姿を消す。これも蛇尾川と同じ。まるで、蛇尾川の弟(おとうと)川(がわ)。蛇尾川が兄さん川だ。そんな思いを持った。
正男は那須野ヶ原の地形を考えた。原の真ん中を流れる蛇尾川、熊川は山から平場へ出るところで水無し川になる。姿を消した水は地表から地下へ潜って伏流する。この水は那須塩原市の南部から大田原市の北部にかけて姿を表す。先人は伏流水の存在とは別に伏流する前の段階で必要な量の水を用水路を作って大田原市、あるいは那須塩原市へ運んだ。これが蟇沼用水であり、巻川用水だ。蛇尾川の伏流水は大田原市の中心部に熊川の伏流水は大田原市の北東部に流下している。なぜならば、水は高きから低きに流れる。これは地表だけでなく地下でも同じなのだ。
令和に年号が改まり、令和の文字に慣れ親しんできた秋の終わりに大きな出来事があった。
ひとつは蛇尾川の左岸に資生堂大田原工場が竣工し、操業を始めたこと。同社社長はここを選んだ理由は蛇尾川のきれいな伏流水があるからだと明言した。もうひとつはとうふ屋組合主催のうまいとうふ品評会があって、みごと正木屋のとうふが優勝したこと。蛇尾川の伏流水を使ったとうふが大田原で一番うまいと認められたのだ。
正男は親に言われた通り、毎日正直にやってきただけであり、店を大きくしようなどとは考えない。これからも変わることなくやるだけ。それにしても、蛇尾川は宝ものを生み出す川なのだと思った。
(完)
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