汚された伏流水

1/1
前へ
/5ページ
次へ

汚された伏流水

 正木屋がとうふ屋を開業したのは明治の中頃。店舗は大田原市の奥州街道から北へ一歩入ったところ。正木屋のとうふはうまいと評判で、店主の正男は先代の手順のとおり作っているだけと言っているが、正直、家の敷地にある井戸水があるからこそと思っている。井戸水と言っても、地下を流れる川と言っていいくらいコンコンと流れる。まさに伏流水だ。一帯の地下5メートルには川があるといっても過言でない。  正木屋の先には正法寺があり、その先には鳳鸞(ほうらん)酒造がある。先代の話では“ほうらん”は近江商人の流れをくむ家系で、ここの伏流水にほれ込んで酒造りを始めたという。ほうらんと正木屋は同じ伏流水を使っていると先代から聞いたことがあるが、それ以上はわからない。  正木屋はとうふ、油揚げ、がんもどきだけ。使う水は井戸水。水道の水は使わない。お得意さんはお寺と料亭、食堂。小売りはやらない。正男は毎朝4時に起きて仕事を始める。午後は配達。夕食は5時と決めている。無類の日本酒好きで晩酌は2本とこれも決めている。必ず晩酌も含めて6時には済ませ、8時には床につく。稼業を継いで、四十年。毎日同じことを繰り返す。  正男で五代目。創業百年を越える。これまでの道のりは決して順風満帆でない。稼業を継いで、十年目とき、思わぬトラブルに巻き込まれた。  「正男!今朝の水の色が黒っぽい。いつもと違う」  母のヨネが気が付いた。正男は改めて水を見ると、確かに黒い。  即座に臭いをかぐ。無臭であるが、水を手にすくうと、手のはだざわりが違う。  「これではお客様に出せない。なぜだかわかるまで休もう」  「そうした方がいい」  正男の判断は早かった。朝飯も食べず、すぐにほうらんさんへ行く。  「今朝の水はいつもと違う。こちらの水はどうですか」  「いや 実はうちでもそう思って取水を見合わせたんですよ」  さらにうどん屋へ行く。やはり、同じような答えだった。営林署に近いうどん屋も同じ伏流水を使っているので、何かと情報交換している。  正男は保健所に行き、水質を調べてもらう。何と油性分が含まれているとのこと。油性をさらに調べると、工場からの排水らしき成分であることがわかる。工場と言えば、ポッポ通りの丸山製作所しかない。  「こちらで、工場排水を捨てなかったですか」  「何かありましたか」  「申し遅れたが、私は正法寺前の正木屋でとうふを作っている相馬と言います。実はいつもと水が違うと気が付き、保健所で調べてもらったら、油分が含まれているというんですよ。どうやら、この排水はこちらからのものなのではとお伺いした次第です」  正男は事の顛末を話し、水質検査証明書を応対した工場責任者らしき人に見せた。  「うちは確かに油を使っていますが、排水はしていません。使った油は一カ所に集まり、鉄製の容器に入るシステムになっています。専門の業者に処理を委託しています。業者は容器そのものを別の場所に運搬していますので、油が漏れ地下浸透することはないです」  いかにも、クレームを持ち込まれ、心外だと言わんばかりの言葉が返ってきた。  「しかし、この辺で油をつかっているところはこちらの工場以外にないんですよ。先ほども言いましたが、私のところは食べ物を扱っているので、こういうことがあってはいけないんですよ」  正男は原因不明のまま帰る訳に行かないとこう言った。  「とにかく、当社もこんなことは初めてです。早急に調べて返事します。正木屋さんの連絡先を教えて下さい」  数時間して正男のところへこれから伺う旨連絡があった。聞くところによると、昨日、担当者が機械油の容器を倒してしまい、それが地下浸透してしまったのだろう。当社の責任なので、被害があれば補償します。今後、このようなことがないよう厳重に注意しますと平謝りで来店した。  正男は工場責任者が来店する前の御前10時頃、水を確認した。そのときはいつもの状態に戻り、異常は見られなかった。  「朝の一時(いっとき)だったようなので、これから二度と起こさないよう注意してくれれば、補償は求めないですよ。ほうらんさん、うどん屋さんには個別に伺って下さい」  「これから行って説明します」  正男はあのとき、製造を続けていたら大変なことになったと思った。もしも油混じりのとうふを売ったら…  考えるだけでぞっとした。一日だけの休業で済んだことでほっとしたことと家の井戸水が五百メートル北のポッポ通りに近い工場の地下とつながっていることを知った。  水質トラブルはこのときだけでなかった。そのときから十年後だった。やはり水の色がいつもと異なった。少し赤みがかっていた。このときは正男が気が付いた。もっとも、既に母は他界し、女房の定子の二人で切り盛りするようになっていた。  このときも、ほうらんさん、うどん屋さんに行って状況を聞いた。それより北のそば屋にも確かめに行った。やはり三軒とも気がついて一時取水をストップしたとのことだった。  後でわかったが、乃木神社の前の通りで果物を積んだトラックが横転し、果物が道路に散乱した事故があったとのこと。おそらく、この果物が腐敗し地下に浸透したのだろうとの情報は道路を管理している県土木から得た。正男はこれでとうふ作りが一日だめになったことを何とかするよう、県土木に申し入れたが、横転事故の時期から期間が何日もたっていることから車の運転手に決めつけられないとのことだった。もし、川の水であったらまた別の対応があったかも知れない。一旦地下に潜った伏流水は汚れたからといって、その原因追及することは簡単でないと結局そのままになってしまった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加