伏流水の源(みなもと)を訪ねて

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伏流水の源(みなもと)を訪ねて

 正男は高校を卒業すると、すぐ稼業を継いた。体格がよく力仕事に何らおくすることはなかったが、正直、商売は好きでなかった。父が卒業式を前に亡くなってしまったのだ。長男の正男の希望を受け入れられる状況ではなかった。もともと、山が好きでお天気情報などを学ぶ気象大学校に進もうと思っていた。天気図を見ていると一日飽きなかった。その道に進もうと決めていた。しかし、それは実現できず夢で終わった。  近所の先輩から誘われて、地元の山岳会に入会したのは稼業を継いで五年も過ぎて、何とか仕事を覚えてからだった。山岳会は三十人くらい会員がいて、ほとんどが市内に勤める会社員で自営業者は正男を含め数人だった。  夏場を中心に年4,5回那須、日光の山々を歩いた。勤め人が多いことから1泊するぐらいで、遠くには行かなかった。もちろん冬山はやらなかった。正男は前もって行くコースの地図を観たり、どんな装備をすればよいかを考えるのが好きだった。  入会して二十年ぐらいのとき、男鹿岳に登った。三十歳代半ば その時の光景が今でも鮮明に覚えている。男鹿岳から大佐飛山を見たときだ。 東に木の俣川、西に大蛇尾川が別れ~に流れるのを目の当たりにした。その後は小蛇尾川を眼下にしながら下山したが、エメラルド色の水がしっかりと流れていた。後日、東京電力に特別の許可をいただき、塩原発電所を見学する機会を得た。同発電所の許可出力は90万KW。揚水式発電所(東京電力 竣工平成7年)で夜間に余剰電力を使って上池の調整池(八汐ダム)にあげる。昼間調整池(蛇尾川ダム)へ落とし発電する。  火力発電が主流を占める中、水を高い所から低いところへ移動することによって発電する揚水式発電は素晴らしいと思った。まさに水の高度利用によってクリーンエネルギーを生み出す新時代にふさわしい蛇尾川からの贈り物。正男は知らない世界で着々と蛇尾川の水が貢献していることを心強く思った。  蛇尾川(さびがわ)上流の光景とエメラレルド色の水が胸に焼き付き、折にふれて脳裏に浮かんできた。宝石に見えたというと言うとオーバーかも知れないが正男にとっては別世界を垣間見てきたように思えてならなかった。  エメラレルド色の水が揚水式発電の水となり、平場に入ってからは伏流水となり、大田原の水道水になり、酒、とうふの原料になる。川の名前からして蛇の尾っぽの川と書いて、「さびがわ」という。その上、流れる水は場所によっては吸い込まれるようなエメラルド色から空の青さよりさらに青い色に変わる。平場に入ってからは地表から姿を消し、伏流水となる。大田原付近で生まれかわったようにきれいな水となる。考えれば考えるほど不思議な川だと正男は思うのだ。  男鹿岳にはそのとき以来行っていない。合流点より下流は車で行けることもあって、愛用の軽トラでたびたび出掛けるが、合流点から上は行っていない。せいぜい登山は年一回程度、那須の大峠に行くらい。五十を越えた今ではできればあと一回だけ男鹿岳に行ければと思っている。でも、それもできないだろうと半ば諦めている。  正男は蛇尾川のしくみや大田原の歴史に興味を持つようになった。扇状地なのだから平野部に入ると、水は突然姿を消すことはわかっているのだが、消え方があまりにも見事なので、忍者の雲隠れの術にかかったような思いにいつもなるのだ。川は延々と続く石の河原となる。河原は大田原市の今泉付近で水のある川となる。同時に、それまでの南北方向を東に変え、まるで大田原市の中心部を回避する(庇護する)かの如く流れる。龍体城はそれを見届けるかの如く位置にある。黒羽城についても調べた。大関氏の黒羽城は那珂川左岸の高台に築城しているが、これまたここにしかないというところにある。  どういう経過でお城は造られたのか、あるいはどういう場所に造られたのかと、お堀はどうなっているのかなどに次第にのめり込む。 嫁の定子は山歩きの方はまだしも、歴史の方にのめり込んで行くのはよしと思っていなかった。  「家はとうふやなんですからね。歴史がどうとかこうとかは商売に関係ないですからね。もし、商売そっちのけでそんなことやっているんであれば実家に帰らしてもらいますよ」  釘をさされた。定子にすれば、そんな大きくないながらも長年続いたとうふ屋を夫のどうらくでつぶしてはならないと思ったのだろう。 以来、郷土の歴史を目立って口にしたりしないようにした。しかし、止めることはしなかった。俺は競輪競馬などギャンブルは一切やらないし、アユ釣りもやらない。商売をおろそかにすることはしない。また、学者になるつもりもないし、そんな才能もない。あくまで、暇なときやろう。そう心に決めた。以来、正男は定子の前で山の話や歴史の話は一切口にしなかった。  定子の前では、そうふるまったが、内心は以前と変わることはなかった。  黒羽城のお堀の水はどうしたのか。那珂川の水を引いたとすれば、どこから引いたのか。これは大田原城でも同じだった。蛇尾川の水をどうやって城内に引き込んだかだ。これを解明するためしばらくお城に通った。結果として正解を得るに至らなかった。  奥州街道をさらに北へ行くと白河へ続く。白河の小峰城は阿武隈川の近くに建っている。こちらは城内の水はどうしたのかが気になった。白河なら半日で行けると、軽トラで出掛けた。  しっかりと井戸が城内にあることを発見した。しかも、阿武隈川の流れを変えて築城していることもわかった。まったく建築のことを知らない素人の正男でさえも小峰城が当時の粋を集めて築城している。丹羽長重が造ったとされるが、凄い人物と思った。
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