大田原の歴史をひもとく

1/1
前へ
/5ページ
次へ

大田原の歴史をひもとく

 正男は蛇尾川と大田原市の歴史を調べ始めた。定子はそれを知ってか知らずか口にすることはなかった。  湧水帯は那須扇状地の標高が二百メートル付近から南東方向に帯状に発達している。等高線は右肩上がりとなり、地下水の流動方向は南東方向にある。奥州街道は佐久山宿から鍋掛宿を直線で行くとすれば、大田原宿は北に寄り過ぎている。それをあえて北に位置する大田原を宿場町に選んでいるのは何故か。ちょうどそこに水が湧き出していたからにほかならないのだろうと思った。  街道ができる以前から水を求めて人が集まって生活していたのだ。それは街道の南にある不退寺の創建時期が鎌倉時代とされ、不退寺周辺に十数軒の家があったとされることから明らかなのだ。  人が集まって生活をしていたことは、それだけの水が大田原にはあったことを証明しているのだ。それは誰がとかいう次元のものでなく、那須扇状地という日本最大の扇状地が長い年月かけ、蛇尾川を通して大田原に贈り届けてくれたのだと考えた。  正男は歴史の専門家にならなくても、せめて自分の生まれ育った大田原の地ぐらい調べるのは許されるだろう。街道沿いとうふやの末裔として、自分で古文書や地図を調べ始めた。定子は正男がとうふやの稼業を放り出しているわけでもないので、見て見ぬふりをしていていた。  大田原城築城の前後関係、奥州街道の位置関係がわかった。 那須家の家臣大田原氏は16世紀半ばに蛇尾川の水口にあった居館を勢力拡大と敵陣防止のため、蛇尾川右岸の丘陵に「龍体城」(別名前室城)を築く。背景は戦国の世に平場(ひらば)にいたのでは敵に攻めて下さいと言っているようなものだし、その頃、鉄砲が入ってきたので、自然のとりでになる龍の形をした場所を選んだのだろうと思った。前室城とも言われるのは、もともと、この地は前室村と呼ばれていたことからそう呼ばれることもわかった。  後に、大田原氏は関が原の戦いで東軍に参戦し、その功が認められ、一万二千石の大名(藩主)になる。以降、江戸時代一貫して、大田原藩は関東の砦(とりで)の城下町として、また奥州街道の宿場町として栄える。同藩は戊辰戦争ではいち早く新政府側につき、壊滅を免れる。  大田原宿は宇都宮から六番目の宿にあたる。佐久山宿から箒川を渡り、大田原宿に入る。幕末期は家が2百軒余り、飯屋・旅籠が約五十軒。寺社が大田原氏の菩提寺である光真寺はじめ十軒余り。宿の人口は約千五百人。街道の真ん中には水路がある。街道は中心部を越えると直角に北に曲がり、さらに進むと再び直角に曲がる。敵陣が西から攻めて来たとき迂回させるためにあえてそうしたとされる。奥州街道を白河に向かって、上町、仲町、下町の町名になり、仲町は中町とも書いた。仲町には奥州街道の本陣、問屋が置かれた。参勤交代では本陣には大名、問屋には随行の侍が泊まった。奥州街道の北を北町、南を南町と読んだ。正木屋は北町に入る。  明治時代以降、蛇尾川、蟇沼用水等についても全容が見えてきた。正木屋の裏手に県の地方事務所があることから、割と簡単にわかった。  那須野ヶ原の南部に位置する大田原は城下町、宿場町、寺町の面影を残しつつ県北の行政・文化の中心都市として繁栄。昭和29年大田原町、金田村、親園村が、合併し大田原市誕生。翌年に佐久山村を合併。平成17年には黒羽町、湯津上村を合併。お城跡は土塁とお堀の一部が残り、龍城公園、その北側の大田原神社周辺の自然林とともに、昭和の景観を今なお残す。さらには、これら貴重な高台の南側には河川緑地が広がり、蛇尾川右岸の森林・緑地は大田原市民の憩いの場になる。  大田原藩では江戸時代から蛇尾川の水が伏流する直前で水を取水し、蟇沼用水として大田原城下に水を引き、この水と奥州街道沿い一帯の伏流水によって生活が営まれる。伏流水は南東に流れ、鹿島川となる。蟇沼用水の残水や伏流水を集めた鹿島川は蛇尾川に大田原市の市街地を南東に流下し、市街地から離れた宇田川近くで合流する。別の言い方をすれば、大田原の水は蛇尾川から直接取水し、導水した蟇沼用水と蛇尾川上流に降った雨が那須扇状地の地下に浸透した伏流水の二本立てになる。しかも、鹿島川は市街地の各所からの伏流水を集め、蛇尾川に戻しているのだ。  一方、蛇尾川の水が消えたのに関わるこんな言い伝えがある。その昔、行脚中の高僧がみすぼらしいなりをして、蛇尾川で水仕事をしていた老婆に水一杯を所望したところ、あなたのような汚れた人に飲ませる水はないと断った。それからほどなく水は一滴も流れなくなった。高僧は弘法大師で、老婆の心無い言葉に怒って水を流さなくしたという。  なお、蛇尾川は「さびがわ」と命名されているが、一説によれば、「さび」という川の名はアイヌ語の「サッ・ピ・ナイ」(渇いた小石河原の川)に由来するという。  正男は弘法大師の話は作り話と思った。アイヌ語の話はその昔、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に行く前はこの辺にもアイヌが住んでいたという話を聞いたことがあるので、否定も肯定もしなかった。  大正7年に開業された東野鉄道は西那須野駅から黒羽を経て小川町(現・那珂川町)まで走った。戦時中は軍事物資を輸送す るなどで需要があった。しかし、戦後の不況で赤字路線となり、昭和四十年代はじめに全線が廃止となった。  大田原への勤め人は多くが公共交通機関利用であったので、宇都宮方面からの通勤は西那須野駅でバスに乗り変えを余儀なくされた。これら通勤客は忘年会、新年会、歓送迎会あるいは個人的な飲み会というと、帰りにタクシ―を使い、西那須野へ出て東北本線で帰るパターンだった。もちろん、帰りの時間が遅くなるのを見越して、あらかじめ旅館に予約している者もいた。   かつては国の機関である裁判所、税務署、検査庁、県の機関である地方事務所(保健所、土木事務所、普及所等)はほとんどが奥州街道付近に集中した。そば屋、うどん屋、昼飯弁当屋も同街道沿いに並んだ。 昭和三十年代後半に市役所が中心部から北へ移転すると、これまで奥州街道に沿って家が建ち並んでいたのが、北に延伸した。  国・県・市などの役所は飲食の場として老舗の料亭・割烹が使われた。愛護神社隣の岩井屋にあっては敷地内を鹿島川が流れ、 池には大きな鯉がいた。アヤメ、菖蒲がところ狭しと咲き、水の潤う町を垣間見せた。  昭和39年1月、大田原市の水道が創設された。少し遅れて庁舎は移転してきた。移転に先立って井戸ポンプが掘られ、市民の水を確保した。なお、長期・安定した水量を確保するため井戸は周辺の数倍深く掘られた。 税務署、足銀も北に移転。自動車販売店、家具電気店などもオープンし、大田原、西那須野駅間は店舗等が増えて行った。  昭和四十年代は塩原、西那須野方面からの買い物に来る客、あるいは黒羽、馬頭、小川の方からも、大田原へ行って町場の空気を吸おうと出かけて来る人が少なくなかった。映画館、食堂、飲食店が並び多くの人で賑わった。  昭和60年代から平成にかけて到来したバブル期は大田原の商店街も活況を呈したが、長くは続かなかった。  とうふ屋の石田屋が店を閉めた。小売りが専門だったが、売れ行きが悪く、やむをえず自転車で笛を鳴らし売り歩いた。細い路地まで入り売り歩いたが、3,4年で自転車売りも止めた。  「正木屋さん。スーパーさんには負けましたよ。店(うち)と同じ大きさのを半分の値段で売っているんですよ。お得意さんだって、そちらへ行きますよ」  「確かにね。あちこちのス-パーが安く売っていますからね」  「とにかく、うちは昔ながらの手作りで大きさもずっと同じでね。スーパーさんは大きさだけでなく、固いのからやわらかいのまで品数を揃えているんですよ。作っても売れない。赤字が増えるだけなんですよ」  石田屋は奥州街道の南で正木屋と反対側にある。店主の達也は四十代半ば。  「子供もまだ学校へ行っているし。うちも井戸はあるけどそのままだね。もったいないけどね」  それから何カ月か過ぎたあるとき、道端で出会った。郵便配達をやっていた。  「しばらくです。商売はどうですか。正木屋さんは場所がいいから大丈夫なんでしょう。それに、正木屋さんは危ないことに手を出さないからね」  「いやー よくないですよ。いつ閉めるか毎晩考えていますよ」  「やはり、スーパーさんの勢いにはかないませんよ。正木屋さんはお寺抱えているから心配ないでしょう」  そば屋のあおた屋も店をしめた。奥州街道沿いで本陣があったところだ。老舗のそば屋だったが、客足が遠のき、平成に入って間もなくだった。  あれだけ老舗料亭として栄えた岩井屋に客足がない。いつも開店休業状態だとのうわさが流れて、間もなく店を閉めた。夜な夜な飲み客で賑わった親不孝通りのスナック、バーも灯りが消えたように静まり返った。  正木屋は売り上げは伸びないが、細々ながら看板を下ろさず続けていた。正法寺を始め、お得意さまのお寺とは先代から続いた。特に、作り方を変えることもせず、蛇尾川の伏流水をもとにとうふを作っている。  山歩きの方はほとんど行かなくなったが、いつものように伏流水の水温、色、におい等を観測することは怠らなかった。ひまがあると軽トラを走らせ、蛇尾川の水を追っかけた。  自分はどうしてこんなことをやっているのか。定子が言うように、もっと商売のことを考えればいいのにと思うも相変わらず商売に関係ないことをやっている。本当の商人がやることでない。そんなことを自問自答するのだ。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加