生還者

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残酷な話になる。 事件による死者数である。 広島の原爆では、原爆投下から2カ月~4カ月の間に9万~16万6千人あまりと幅がある。長崎の原爆では7万4千人、東京大空襲10万人、関東大震災の10万人とあるがこれは関連死や時間軸を含めた数字にはなっていない。  いずれも都市での死者数であること、時間軸があいまいであることなどを含めて正確な数字は出せないのは当然だろう。  しかし1か所という場所に限定すると数字が見えてくる事象もある。 1つは島原・天草一揆での原城のキリシタンの死者は3万8千人と言われる。 もう1つは関東大震災での本所被服廠(ほんじょひふくしょう)跡地での3万8千人である。それでも両者とも正確な数値とは言い難いが、1つの狭い場所数での死者としてはかなりリアルな数字で、場所を限定した死者としては史上に残るのではないか。  今回は関東大震災で死者数の約38%を占める本所被服廠跡地でなぜこんなにも犠牲者が出てしまったのかを考えてみたい。  時は1923年(大正12年)9月1日 午前11時58分。 人々はお昼の食事に向け準備をするころであった。 相模湾北部を震源としたマグニチュード7・8の巨大海溝型地震の発生により東京や神奈川で震度6から7を記録した。 木造家屋がまだひしめき合っていた時代、東京は下町を中心に各地で火災が発生し、東京府東京市内の64万棟のうち約40万棟が全焼した。 阪神淡路大震災が家屋による圧死、東日本大震災が津波による溺死が多かったのに比べ関東大震災は焼死が圧倒的に多い。  浅草、両国のあたりでは次々に火事が発生し、人々は大事な家財道具をもって火の気のない両国にある本所被服廠跡地を目指した。なぜなら人々は地震の4年前に工場が赤羽に移転し、実に東京ドーム1・5倍の何もない空き地があることを誰もが知っていたからである。 人々は、時に大八車などを使って、この空き地に集中していった。しかし火災は午後4時ごろになると空き地に四方八方から火災が囲うようになった。延焼による火の勢いはまるで魚焼き器のグリルの状態になってしまった。人々は円型に炎によって狭められていき人の上に人が折り重なるような状態のまま気道熱傷(火の粉が気道に入り窒息)によって死んでいった。 こんな惨状のなか数%の確率で奇跡的に生還した人もいる。 帯重なる死体の中に潜っていた人、水たまりに浸かっていた人などもいたが、他に奇跡的な生還をはかった人々が数人いる。彼らは奇跡的にこの空き地を抜け出せた数少ない生還者だ。ではどうやってこの危機を乗り越えたか、それは神のなせる技としか思えないものだった。
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