那須疏水

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那須疏水

 誠は昭和45年に本郷町で生まれた。家は晩翠橋の近くにあって、家から百メートルもすると那珂川があった。家は那珂川の川岸と言ってもよいくらいだった。昔の原街道が家の前を通り、駅方向に登り坂になっていた。隣は三味線を作っていた人がいた。そこは作るだけでなく、教えることもやっていて、芸者さんらしき人が出入りし、ときおり三味線の音が聞こえた。  小学校から中学校時代は温かくなるのを待ち構えて、近所の仲間と一緒に那珂川に出掛けた。ヤスと水中メガネを持ってだ。学校から帰ると、家を飛び出し暗くなるまでやった。家へ帰って教科書を広げることはまったくなかった。  誠らの魚とりは小学生の頃は晩翠橋付近だったが、中学生になると、那珂川上流へと移って行った。始めた頃は浅いところが中心だったが、少し泳げるようになると深いところを潜るようになった。鳥野目、小結、亀山、ついには西岩崎まで行った。  西岩崎の方は大きい岩があって、水に長く入って、体が冷えると岩の上に横になり、甲羅干しをやった。日焼けして皮がむけるのを自慢した。西岩崎までは8キロあり、自転車で1時間半かかった。帰りは下りになり、三分の一の時間で戻れた。西岩崎で山女魚(ヤマメ)が取れた。誠は最初に取ったときのヤマメを鮮明に覚えている。ピンクの斑点が腹一帯にあり、こんなにきれいな魚がいるのかと驚いた。以来、ヤマメに引き寄せられるように西岩崎に行った。岩魚(イワナ)を知ったのもこの頃だ。  中学2年のとき、誠はいつもの場所よりさらに上流に行った。取水口があった。水が吸い込まれるように大きな岩の隧道に水が流れ込むのを見た。那須疏水の取水口であることが一目でわかった。初めてみたときは圧倒されて2時間ぐらいただただ見つめた。  行くときは今日はうんと取るんだという思いで胸をはずませ、自転車のペダルを踏む。上り坂なのでペダルが靴にくっつくように重かったが疲れは感じなかった。帰りは取れても取れなくても鳥野目街道を下るのが好きで、また来ようと思った。何故かというと、横断道路を越えると亀山、小結、鳥野目と一本道が続き、直線をペダルを踏まずに来られからだ。仲間と競争して戻ってくるのが楽しみだった。  西岩崎の那須疏水の取水口付近に行き、見慣れてくるに従って、昔の人はここから水を取れば水が取れるところだとよく見つけたと子供心に思った。ちょうど、那珂川がくねくね曲がって、岩場に流れがぶつかる。そこに穴を掘れば水が流れる。ここ以外のところは川岸が高くて取水しても那須野ヶ原には流れない。誰が見つけたかわからないけれどすごいと思った。  父親に取水口を見て来た話をしたら、父は那須疏水の話を始めた。  「わしも調べたわけでないが、那須疏水は明治18年4月15日に工事に着手され9月15日に通水された。工事を国の負担でやるように働きかけたのが印南丈作(佐久山宿名主)、矢板武(矢板村名主)だ。  二人は那須野ヶ原を毎日眺め、何とか水を引くことはできないかと考えた。はじめ相手にされなかったが、辛抱強く明治政府の高官に陳情を繰り返すうちに国としても、東京に近いところにこれだけ広い原野を未利用のままにするのはもったいないとして、疏水建設を認めた。  わしのじいさんは茨城から那須の地に行けば土地がもらえる、飯が食えると青木に入植した。ところが、来てみたら、石がゴロゴロし、風が強く、田んぼどころか山ばかりでウソつかれたと気づいたが遅かった。帰るに帰れず強風と寒さそして飢えに耐え忍ぶのが精いっぱい。それでも青木農場は地代も安く他の農場より条件はよかったので、何とか生きながらえた。  那須野ヶ原の開拓者は続々と集まった。明治10年代から30年代にかけ、一万ヘクタールを越える土地が大農場の水田、畑、山林、牧場となる。那須開墾社、肇耕社、青木農場、毛利農場、大山農場、西郷農場が誕生した。しかし、条件が違うあるいは病人発生等で四人に一人の割合で離れて行ったという。  もうひとつ誠に話しておこう。それは鳥野目浄水場だ。黒磯には誇れるものとして、鳥野目浄水場がある。これは、県内に水道が大都市にしか無かった時代に水道を整備したことだ。昭和6年3月、黒磯駅前が大火に見舞われ、135戸が焼失した。消火用の水がなく、延焼を食い止められなかったため、これを機に黒磯町100年先を考えたのが、当時の町長菊池恒八郎だ。  菊池は那須疏水の第一分水で取水し、鳥野目まで水路を設け、浄水場等を設け、そこから元の警察署のところまで送水し貯水池をつくった。黒磯駅周辺を給水区域として水道を敷設した。同時に、道路拡張、消防ポンプ車の購入、消火栓の整備を行った。昭和9年のことだ。水道ができたのは県内で宇都宮、足利について3番目だった。これを成し遂げたのが菊池町長だ。菊池町長は高林生まれ、県会議員もやった人物だ。誰とでも気さくに話し、一度こうだと決めたら反対を押し切った。ガンパチって言われたが、頑固のガンと恒八郎はハチから来ている。火災発生後、狭い道路では町発展の妨げになるとして、3年で今の黒磯の基礎を作った。黒磯の繁栄はガンパチぬきには語れない」  父の話の最後は決まって、那須疏水の水があったから黒磯は栄えたという話で終わるが、菊地町長の話になると何故か声が大きくなり、まるで自分が町長になったかのように興奮して話した。  誠が駅に遊びに行く頃は既に蒸気機関車は廃止されたが、昭和50年代はじめはいろんな電車が見られた。家から10分もしないで、行けたので、それを見るために駅に出掛けた。駅員さんからは「箱屋のお兄ちゃん。ゆっくり見ていきな」とか荷物運びのおじさんから「うんと勉強しなよ」などと声かけられた。また、お茶売りのおばさんからはアメやウサギ玉をもらった。川遊びは仲間と一緒だったが、駅遊びはたいがい一人だった。  昭和時代は終わり、平成になった。その頃晩翠橋上流の広場に河畔公園がつくられた。那珂川は晩翠橋のところで両岸がくびれ狭まっている。西岩崎で少し右岸が低くなった後は再び両岸が高くなっている。鳥野目まで下がると、右岸が低く、そこから河川幅が広くなる。河畔公園はその広場を利用して公園づくりが行われた。上流部から野球場、サッカー―場、ラグビー場、プール、ボート乗り場、大小の池があり、四季折々の花も植えられ、一大公園になった。水遊びが終わると、サッカーをやった。シュートやキーパーを交代でやるだけでいつも暗くなるまでやった。  誠の少年時代は那珂川があり、駅があった。そして、那須の山々に見守られながら育った。その思いは齢を重ねるに従って強くなった。家に大学へ行くほどの金はないし、あまり勉強は好きでない。でも、高校だけは出ようと工業高校へ行った。物づくりが好きで、手に職をつければ食べて行けるだろう。そう思ってだ。 高校を卒業し、地元の測量会社に就職した。
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