那須の地を測る

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那須の地を測る

 測量会社に決めたきっかけは高校時代、那須登山だった。峰の茶屋から朝日岳に行くとき那須野ヶ原を見下ろした。黒磯、黒田原、西那須野、大田原市の街並み、那珂川が南に延々と流れる様が一望できた。その光景を見ていると、遠くから自分を見えた気がした。別の言い方をすれば、他人の目線で誠を見ることができた。そうだ!自分は今見える那須野ヶ原で生き、骨を埋めようと決めた。不思議と勇気が湧いてくるのを覚えた。  そして、同級生はほとんどが那須の地を離れ、誠にも俺もという思いがない訳でないが地元に残る道を選んだ。  黒磯市内の測量事務所に勤め始め、現場を歩くうちに、地元の山、川がどうなっているかを知るようになった。仕事は県土木事務所や那須塩原市などからの発注が多く、たまに大手ゼネコンから宅地開発の仕事を頼まれることもあった。  平成時代に入って、黒磯駅周辺は一頃の賑わいはなくなった。  それもそのはず新幹線の開通で、10年も過ぎると交通状況が一変した。在来線は黒磯駅中心にシフトしていたのが新幹線の那須塩原駅中心になった。いずれそうなると予想されていたが、いよいよそれが現実のものとなった。  家の近くの結婚式場が閉鎖した。昭和の終わりごろから活気がないのは誠にもわかっていたが、いよいよ店を閉めることになった。うわさでは借金がかさみ、資金繰りがつかなくなり、ヤミ金融に手をだしたことから倒産したとのことだ。  旧市街地にあった洋裁店、本屋、薬屋等がシャッターを下した。郊外に建てられた大型店舗に客足が移り、新興住宅も増え、いわゆるドーナツ化現象が起こってきた。  国道4号が鉄道に平行して走っていたのが、バイパスが鍋掛方面にできて、そちらが活気を帯びてきた。大型店舗の勢いはすさまじく、1年もしないうちに街の様子がかわった。  誠は5年先輩の藤田に仕事のいろはを教わった。同じ高校の先輩でもあり、基本からよく教わった。藤田は「測量の基本は測ることにある」と繰り返し口にした。あまり冗談をいうことなく、昼休みも仕事から離れなかった。  「位置関係がわかれば角度によって高さがわかる。平地においても、山岳地においてもこのことが基本だ。登記簿の読み方は、一筆の土地には甲区、乙区に欄があり、一個の建物は主たる建物と付属建物がある。建物についても同様に甲区、乙区の欄がある。登記簿は土地、建物の履歴書だ。地図についても、古い地図から新しい地図まで並べ、地図の違いを見れば、町の歴史がわかるんだ」と教えてくれた。  誠が就職した頃は平成のはじめ。まだバブル時代が続き、仕事はいくらでもあり、特に那須に観光客を呼び込もうとレジャー施設、例えば、ゴルフ場、結婚式場、美術館、保養所、レストラン等であり、別荘地の再分譲などがあった。誠の仕事は、道路測量の見習いが多く、現場は那須野ヶ原の北部が多かった。具体的には那須塩原市、那須町であった。 道路測量は百%道路改良で新設はなかった。一本の道路を改良するのに何回も測量図面をつくった。昔は直営で土木事務所自らが測量して作図したが、昭和40年代になると外注という形で民間の測量事務所が設計した。  初めて任されて担当したのは、市内の県道に歩道を設ける設計だった。現地で測量し、図面を引いた。1カ月ほどで、県土木事務所へ提出した。半年後に工事施工された。そちらは建設会社が受注して行われた。自分が設計したものが形になっていくのを見て、自分も街づくりに参画している意識になり、やりがいを感じた。その後、供用開始になり、小学生が通学している姿を見て、嬉しくなった。  道路改良等が終わると必ずつくられる道路台帳の仕事を担当した。道路管理者が備え付ける台帳として永久保存されるもので、正確な測量図が要求され、少しのミスも許されない。夢中で仕事をやった。
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