無限の可能性

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無限の可能性

 次は、黒磯公園の敷地境界の測量の仕事を担当した。那珂川河畔公園と接続する階段を設置するために必要な用地(敷地)を測量するものだった。傾斜地の測量だったが、何とか仕上げた。のちに階段工事を建設会社が請け負って完成された。遊びで黒磯公園、河畔公園には何度となく来たが、仕事で来るのは初めてだった。誠は改めて黒磯市にはこんな広い河川敷地があり、公園整備されている。素晴らしいと思った。  市内高林に工業団地を造成する仕事が入った。その用地測量を市から受注し、担当した。10ヘクタールの広さの山林だった。これを区画割し、道路を設けるものだ。これは同僚5人と作業をやった。半年かかり仕上げた。  工業団地は多くの雇用を生む。人が集まれば町が発展する。もちろん長い年月を要するが、良好な立地環境にありながら、開発が遅れていた高林地区の発展が期待できると思った。  塩原のある旅館からは隣接地の山林を測量して欲しいとの依頼があり、事務所で受注し、誠が担当した。換価して営業資金に充てるためとのことだ。資金繰りが苦しくての決断とのことだが、面積は2ヘクタールほどあった。それまで塩原へは数えるほどしか行ってなかったが、このときは3カ月ほど毎日通った。旧塩原御用邸御座所をみたのもこのときだった。箒川沿いの静かな雰囲気にたたずみ、明治の建築をみることができた。  塩原にはいくつも滝があり、明治時代に夏目漱石ら文豪が詠んだというが、文学的知識がまったくない誠にも塩原の美しさがわかった。那須温泉とは対照的に歴史の重みを目の当たりにし、こんなに近いところに塩原温泉があることはすばらしいことだと思った。  板室温泉の先のゴルフ場も担当した。もちろん面積が大きいので、事務所の全職員が担当した。ゴルフ場の場合、必ず18ホール以上造るが、普通3コースで27ホールが多かった。ここは最低の18ホールだった。板室へは1年通った。  板室温泉の東に位置し、那珂川の最上流で深山ダムにもほど近い。別荘が立ち並び、景観がすばらしい。森林浴を楽しみながらゴルフができる。誠はゴルフをやらないので、よくわからないが奥那須の自然が生かされたゴルフ場で大きな観光資源になるものと期待した。  那須町の広谷地の案件は中学校の後ろに千人程度収容するいわゆるリゾートホテルを建設するものであった。予定地には池があってまさに那須全体を眺望できる一等地に位置していた。ここへも、1年近く通った。  誠はこういう広くて、リゾート地にふさわしい土地があることに驚いた。那須が軽井沢と並び高い評価を得るが、本当にそうだと思った。  しかも、千本松付近には塩原カントリークラブ、西那須野ゴルフクラブ、蓬莱カントリークラブの3つのゴルフ場が並ぶ。それでも、まだ余地があるのだ。  誠の仕事は、道路整備等の公共事業に関わるものから企業のリゾート開発あるいは個人の財産に関わるものと様々であった。那須の地は多くの可能性を秘めた地であると思った。  那須の地は東京から150キロ。時間的にも距離的にも適度な位置にある。都会の喧騒から解放され、那須の地にいるだけで、おいしい空気を味わえる。かつて、明治政府の高官が広大な土地に大農場建設を行った。那須疏水の建設も国の手によって行われた。開拓者の水との戦い、風との戦い、石との戦いを経て今日がある。  誠は那須山の標高もほどよい高さだと思っている。二千メートルを越えず、極端に険しいほどでもない。もしも、もっと高かったら、人の到来を避けただろうし、もっと低かったら多くの過剰な登山者を招いたかも知れない。一人の測量技師として、那須の地はほどよい距離、ほどよい高さ、広い土地が無限の可能性を秘めていると思うのだ。  測量会社に10年余り勤めたある日、職場の上司から、市商工会で人を募集している。誠くん行ってみる気はあるかという話が飛び込んできた。33歳のときだった。聞けば、給料は今より安くなる。しかし現在の事務局長は50代後半で、あと数年で退職。若い人で元気のいい人を欲しがっている。誠は結婚したばかりで、測量の仕事に生きがいを感じはじめてきた頃だった。それで、測量の仕事を続けたいと断った。  もともと、黒磯駅前に生まれ育って、地元を離れずに残ったのは地元のために働こうと思ったから。これまで、地元の山、川、原っぱを測量し、それが地元のため、郷土のためになると信じて10年余り。先輩に教えられ、いよいよ測量事務所では中堅として活躍が期待されていた。ところが、どういう訳か、誠への勧誘は続けられた。一年後に結論を出した。出した結論は転職する回答だった。本人は相当悩んだ上の決断であった。
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