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那須疏水駅伝大会
疏水祭りに駅伝大会を開催しようとする動きがあったのは今から三年ほど前の平成28年。旗振り役となったのは黒磯商工会事務局長の人見 誠であった。誠は根っからのマラソン好き。県営稲村住宅に住み、休日は青木周辺を走っている。疏水まつりは烏ヶ森公園で明治18年4月15日に那須疏水工事が着工されたのを記念して、合併前の西那須野町時代から合併後も毎年同日に行われている。
誠は同商工会に勤務して15年 事務局長に昇格した。これまでの実績が認められ、多くの商店主の強い推薦を受けてであった。
弁当箱づくりの息子として生まれ、子供時代は駅の回りをちょろちょろし駅とともに、あるいは那珂川の魚とともに育ってきた。
高校を卒業してからは地元の測量事務所に就職し、道路つくり、工業団地づくり、ゴルフ場づくり、さらにはリゾートホテルづくりと那須野ヶ原から那須山まで駆け巡ってきた。その原動力は父・母のひたすら家の片隅で弁当箱づくりをする背中であった。
今回の提案は那須疏水着工日でなく竣工した日に駅伝大会を実施しようとするもの。主催者はふるさと那須野花火大会の実行委員会のメンバーが中心。誠はこの案を黒磯駅に持ち込んだ。黒磯駅員の斎藤 昭ははじめ何のことかわからなかったが、何回か合っているうちに、賛同の意を示した。もともと、斎藤は黒磯生まれの黒磯育ち。親も国鉄マンであった。あまり転勤はしないで、黒磯駅に30年余り勤める古参の駅員だった。
「わかりました。私もJRマン。黒磯駅に世話になった男。今あるのも那須疏水の水が蒸気機関車の蒸気になったからこそ。それがなかったら黒磯駅はありませんし、自分もいません。私の最後の仕事として協力できるものは協力しましょう」
もう一人の相談相手は那須野ヶ原土地改良区連合の吉本和夫であった。同連合は那須疏水を統括する立場で願ってもないこととふたつ返事で了解した。
「おっしゃるとおりです。今や那須疏水は那須野ヶ原の農業用水、水道用水として、あるいは防火用水として不可欠のものになっています。これが当たり前になっていて、忘れられています。非常に残念なことです。このままだとますます忘れ去られて行くのかと心配です。そんなとき、商工会さんから話があり、大変ありがたい話だと思っています。特に、こういう形で那須疏水のユーザー側からの発案は大歓迎です」
「そうですか。黒磯駅さんが協力すると言ってきたのですか。であれば、私の方も乗りますよ。花火大会でもお世話になったですし、大きい目で見れば、那須野ヶ原の農業振興に役立つのですから…」
JAなすの松本 隆は当初から慎重な態度を示していたが、JRが前向きなので、方針を変えてきた。要するに、他の出方によって決めるという姿勢を示した。市役所に相談した。市役所はまちづくりを所管する課に話したが、後刻、土地改良を所管する課と相談し、協力する旨の回答を得た。
黒磯、西那須野、塩原の商工は事務局長がそこまで熱心にやるのであれば協力しようとなった。
誠はこれらの動きを父には話さなかった。駅伝大会のゴールに観客の一人として来てくれればそれでいいと思った。とにかく、黒磯の発展をつくった人をつなぎ、特に、黒磯駅が蒸気機関車の燃料として那須疏水の水を使ったこと、駅前周辺の火災後の復興に那須疏水の水によって水道が整備されたことを後世に伝えたいという念で賛同者を募った。
駅伝大会は父親が生きているうちに実現させたいと思った。特に、駅弁の箱作りをやって半世紀を続ける父に見せたい一心で準備を進めた。
何とか素案を作って、提示したのは初めて誠が斎藤 昭に示してから1年がたっていた。
そして、斎藤、吉本、松本を加えてたたき台つくりに着手した。平成30年1月に第1回の準備会を開催した。準備会に提示された案は次のとおりであった。
区割、距離数、開催日
一区 黒磯駅前 「交流センター~青木邸(8㎞)
二区青木邸~那須疏水取水口(4㎞)
第三区 那須疏水取水口~戸田十文字(4㎞)
第四区 戸田十文字~青木小学校(4㎞)
第五区 青木小学校~黒磯駅前交流センター(6㎞)
開催日 平成31年9月15日 午前9時スタート
参加団体 ①JAなすの ②那須塩原市役所 ③黒磯駅 ④那須温泉旅館組合 ⑤黒磯駅前商店会 ⑥那須塩原消防団 ⑦黒磯駅タクシ-会 ⑧塩原温泉旅館組合 ⑨西那須野商店会青年部 ⑩板室温泉旅館 ⑪東那須野商店会 ⑫那須疏水土地改良区連合
誠は那須疏水の水が黒磯駅を支えたこととガンパチこと菊池恒八郎が黒磯駅前周辺の市街地整備の基本を作ったことを後世に伝えようと発案した。はじめ、賛同が得られなかったが、徐々に理解が得られてきた。特にJA高林地区からぜひ参加者を出したいとの声が届いた。高林地区は菊池恒八郎の地元であり、そういう趣旨の駅伝ならば是非と出てきたのだ。
市役所もはじめのまちづくり担当課だけでなく、土地改良課と水道課も加わるので2チームを出そうという声もあがったが、人選して1チームに落ち着いたとのことであった。
コースについても、特に異論はなかった。ただ、出場選手は若い人だけでなく高年齢(50歳以上)、女性を条件選手として各1名を加えることにしようと提案がされ、提案通り決まった。
それからせっかく那須疏水の取水口に行くのだから、水汲みの桶を持って走るようにしたらという提案があった。これについては重くなるということで、バトン代わりに水道のホースを短く切ったものを持つことになった。
併せて交通誘導員をボランティアとして募集すること。スターターは那須塩原市長にお願いしようということとなった。
開会1月前に開催大綱が地元新聞に掲載された。さらには市の広報にも掲載され、市民にも徐々に知れ渡り事務局の那須塩原市商工会への問い合わせも増えてきた。
第一回大会は秋晴れの青空の下、令和元年9月15日に実施された。同時に高校生の疏水太鼓も披露された。スタートした選手がバトンでなく水道のホースを持っているのに、市民は驚いていたが、開会の趣旨を聞き、納得していた。
優勝はおおかたの予想に反して黒磯駅チームだった。ゴールでは数百人の観客が迎えた。黒磯駅チームの力走に惜しみない拍手が送られた。黒磯駅にかけつけた人はJR関係者、市役所職員ら関係職員がいた。その奥には誠の父(信二)もいた。目に大きな涙をためていた。
勇壮な疏水太鼓の響きは、那須疏水、黒磯駅が強いつながりがあること、さらにはこれを機にこの絆が必ずや次世代につながることを物語っていた。
(完)
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