4章 いつか来た道

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「お疲れ様でした。 もっとむさくるしい男子校を想像していたけれど、シンプルで明るい雰囲気の高校だね。」 「なんせ、華美を嫌って質素を尊ぶ校風だから、シンプルなのは確かだ。 勉強は厳しく言われたけど、面倒くさくなくて、僕は好きだったよ。」 「昔から、高校時代の話をするとき、裕也君楽しそうだもんね。」 「そうかなぁ、自分ではわからないけど。 そうだ、ここから車で10分くらいのところなんだけど、ちょっと一緒に行ってもらってもいいかな?」 「ええ、もちろんいいけど、どこ?」 「大山参道というところ。 大山巌って知ってる? 薩摩藩出身の人で、明治時代に政府の要職について、元帥で侯爵にもなった人なんだけど。」 「名前は知ってる。」 「奥さんは、大山捨松と言って、会津藩士の娘で、津田梅子と一緒に女子官費留学生としてアメリカに留学した人だよ。」 「大山令夫人になって、“鹿鳴館の華”と言われた人ね。 津田梅子は生涯独身で、津田塾を創設して女子教育に一生を捧げた人だけど、捨松は大山夫人になってからも、生涯、友人として梅子を支えたらしいよ。」 「美咲ちゃんは、僕より良く知っているかも。」 「前に梅子と捨松のことを本で読んで、11年間の米国留学から帰った会津藩士の娘が、旧薩摩藩のずいぶん年上の人から求婚されて、どんなふうに心が動いたのかなとか、考えたことあるから。」 「会津にとって、薩摩は仇だからね。 大山巌とはずいぶん年も離れているし、先妻の子供もいたし、捨松自身、初めは“無理”と思っただろうね。 でも、大山巌はひどい薩摩なまりだったけど、フランス語やドイツ語もできる教養のある人だったし、捨松の外見だけでなく、留学先で総代になるくらい猛勉強した会津藩士の娘の気骨に惚れたのだと、僕は思う。」 「捨松は、11年間の留学で、英語だけでなくフランス語やドイツ語も身に着け、看護師の免許も取って帰ったのに、当時の日本では活躍できる場所がなくて、米国かぶれと陰口を言われているときにね、大山巌が熱烈に求婚したらしいの。 薩摩人との結婚なんてありえないと、親兄弟は初めは大反対だったそうだけど、大山巌の熱意に負けて「捨松が良いなら」と交際を許したらしい。 当時は親が決めた人と結婚するのが普通だったのに、アメリカ帰りの捨松の意志に任せたということね。 捨松は、大山巌と何度も会って、人柄に魅かれて、納得して結婚したらしいけど、デートのとき、大山巌の薩摩弁がわからないから「英語で話してください」と言ったらしいわ。 デートを重ねてみて、捨松は、大山巌がアメリカ留学をした自分を理解し、役立ててくれる人だと分かったんだと思う。」 「大山巌は西郷隆盛の従弟で、人間的な魅力のある紳士だったらしいね。」 「捨松は女子大の創設者にはならなかったけど、大山巌と結婚して、11年間のアメリカ留学で学んだことを、明治維新の日本のために生かすことができたのかもね。 鹿鳴館の華と呼ばれたというけれど、美人でダンスが上手いだけでは務まるはずがないもの。」 「鹿鳴館のことは、日本史でも習ったけれど、明治政府は欧米に追いつく ための欧化政策で鹿鳴館をつくって、必死だったんだろう。 実際、鹿鳴館での社交が、欧米諸国との大切な外交の場だったらしいから。 2人は薩摩と会津と出身は違っていても、日本を近代国家にする夢を持つ同志だったんじゃないかな。 那須の大山邸で過ごす大山夫妻は、本当に仲睦ましかったそうだよ。 結婚後も英語で会話してたらしいけど。 大山夫妻のお墓は、別邸のあった那須塩原市にあって、お墓に続く道が大山参道と呼ばれているんだよ。」
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