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アドヴァイス
「若かったなあ」
「え、誰がですか?」
いやなんでもない、と苦笑した結佳に、山科は僅かに首を捻る。そういう小さな仕草でさえ絵になるので、本当に大変だろうなあと思ったりもする。
ギャラリのあるビル内の喫茶店は完全分煙で、結佳は自然に喫煙席を選んでいた。無意識に煙草を取り出したところで、結佳は山科が灰皿さえ手に取ってないことに気付く。どうしたの? と軽く訊ねると、意外なことに彼は「ああ、俺、止めたんです」と言った。へえ、と軽く、いや、内心かなり驚いて、結佳は火を点けられずにいた。
そうこうするうちにも、店員や客が山科をちらちらと見ているのがわかる。以前からそういうことはあったが、それにしても多いなとふと相手を見直すと、線の細い少年らしさはすっかり抜けて、匂い立つような男前が座っている。知り合ったときは二十そこそこだった山科が成長していることに気付いて、結佳は感慨深かった。すでに保護者の心境で自分でも残念だったが。
それには気付かなかったことにして、さっと本題に入った。
「そういや、恩返しってなに?」
なんか貸してたっけ、飲み代? と軽口を叩くと、「いやいや、けっこうな大恩なんですよ、それが」と山科は云う。
「5年前でしたっけ、F先輩の壮行会のときです。アドヴァイスくれたでしょう」
「ああ、えっと青山か、あ、渋谷だったっけ」
「そうそう、坂の途中のレンガ造りのとこです」
海外に写真の勉強、というか武者修行に出掛けるという同窓生のために、写真部のOB・OG・現役生が集まったときか。結佳は記憶を呼び出す。既に京都に移っていた山科が、たまたま上京していたとかで顔を出したのだ。
すっかり酔いも回ったあたりで、各々の作品の批評まで出た。そこで山科は「おまえの写真はつまらない!」とダメ出しを喰らっていた。彼は器用でセンスの良い写真を撮るのだが、どこかおさまりが良すぎて… 少々面白味がなかったのだ。
どこかで耳にした「芸術作品に必要なのはティースプーン1杯の狂気」というフレーズが頭を過ぎって、つい、
「泥臭い写真とか撮ってみれば?」
と言っていたのだ。
泥臭い、とは?と首を傾げる後輩に「そうだなあ、ほら早朝の労働者とか学校の部活動とかさ」と適当なことを言ったのだ。
「それで、撮りに行ったんですよ、甲子園まで」
「え、ほんとに!? しかもなんで甲子園?」
「青春ど真ん中の泥だらけ写真と思って」
「案外、素直じゃないか、山科君…」
泥臭いの意味が違っている気もするが。ま、近所ですし、夏の風物詩ですしね、一度見てみたいとは思ってましたよ、と山科は笑った。もちろん、報道で使うようなスポーツ写真は端から望んでいない。選手でさえなくてよかった。真夏の一瞬を切り取るような写真を、と思っていたのだろう。
「死ぬほど暑かったですけど」
「だろうねえ」
なんせ気温40℃近い、原則野外での運動禁止の期間に開催しているのだ。そろそろ真剣に開催時期を考えるべき、と新聞記者の知り合いが云っていたのを思い出す。
「そこで撮ったんです、一枚」
言いながら、山科は鞄からタブレットを取り出した。長くて白い指がすっと動いて、ライブラリから写真を呼び出す。結佳はどれどれ、と覗き込んだ。
ちょうど試合が始まろうとしているところだった。
一塁側ダックアウト前に整列し、今まさに、グラウンドに飛び出そうとするナインの背中が写っている。
逸る心が列を僅かに乱し、真っ白いユニフォームの背中は朝日を受けて目に痛いほど。
ナインの背景で、銀傘の下は陽光の直線で白黒が区切られている。芝生は滴るような碧さで、夏そのものの色だ。
くっきりと浮かんだ背番号の少年達の顔は見えないが、その背中はあまりに雄弁で、緊張と歓喜が鮮やかに写り込んでいた。
「ああ、いいね」
素直にそう言った。洒落てもいないし整ってもいない。若干、露出さえ甘い気もするが、とにかく撮るべき一瞬が写っていた。山科は「ありがとうございます」と小さく頷いた。
確かに山科にしては新機軸なのだが、さっきの言を借りれば大恩らしいので、これがどういう…? と思って顔を上げると、美しい青年はその写真を見下ろしながら目を細めた。
「いい写真ですね、って言ったんです」
誰が、と訊くのは憚られた。あまりに野暮で。結佳は少し顎を引く。
「生まれて初めてナンパしましたよ。いや、そんなつもりじゃなかったんですが…」
そう言うと、山科はあえかに微笑んだ。
「二回逢ったあと、苦手だって云うので煙草は止めました」
また逢ってもらえないと困るから、と。彼は。
「次の約束をするのが、あんなに幸せだって知らなかったんです」
胸を突かれた。
俯いた白い額に、長い睫毛に、光が弾けて。
そうして彼は本当に、初夏の木漏れ日のように、笑った。
「ひとを、好きになりました」
その笑顔に、結佳は僅かに目を細める。
なんだか心がいっぱいになって、泣きたいような気持ちになる。それから、後輩を羨ましいと思っている自分に気付いて、すこし驚いたのだった。
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