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奥穂高
そのまま後輩の恋人の話を続けるのは気が引けて、あとは近況報告のように互いが最近撮った写真の話をした。それでも山科が穏やかないい貌をしているので、やっぱり保護者な気持ちで結佳も安堵する。
結局、結佳は煙草に火を点けそびれたまま店を出て、ふたり会場に戻ったところで、山科がつと足を止めた。
「ほたか」
「え?」
ある写真の前で、彼がぴたりと制止している。結佳も足を止めて掲げられたパネルを見ると、
「ああ、奥穂高」
冬の奥穂高岳が写っている。青白く眠る山々に、けぶるように薄紅の暁光が差している。厳冬期にこの一瞬を撮るために相当な努力をしただろうカメラマンを思って、思わず心の中で合掌する。しかし、とにかく、
「これは美しいね」
ため息と共に称賛した結佳に、しかし山科は応えなかった。反応速度は抜群のはずの彼の鈍さに、あれ、と思って振り向くと、端正な横顔はひどく驚いた様子のまま固まっている。
何かそれほど珍しいものでも写っているのか、と彼の視線を辿るように写真を見直すと、隣のパネルの方が目に入った。そちらは野球選手が写っている。背番号11の背中と、向かい合わせに同じユニフォームの少年がもう一人。高校球児だろうか? 背番号11の少年は顔の1/4しか見えないが、怜悧な顎の線が印象的だ。こちらを向いている少年も、きりりと引き締まった、なかなかいい面構えだ。
結佳がつっと視線を動かすと、その球児写真のタイトルが『穂高』と読める。「あれ?」と思って隣の奥穂高岳を見れば『エース』というタイトルだ。
「やだ、これ、逆についちゃってるね」
運営が間違えたのだろうかと、結佳が慌ててスタッフを探そうとすると、いえ、と固い声が彼女を制した。
「これで合ってます、カメラマンが同じなので。二枚セットで、シャレじゃないかな」
「は? しゃれ?」
山科は僅かに目を眇めた。それから球児の写真を指差すと言う。
「この、奥のほうに居るの、柳澤でしょう。今は▲▲の、左のエースで」
「え、▲▲の? やなぎ…」
「柳澤圭一郎。だから、この背番号11は穂高岳です」
「…え?」
彼が何を言っているのか解らなかった。しかし、彼がその写真を正確に読み取っているだろう事は分かる。戸惑う結佳はそっちのけで、山科は球児の写真を見ながら呟いている。
「いつだ…? 甲子園じゃないし、ハマスタでもないな。県大会か… あそこの関係者か…?」
少し考える風だった山科は、こちらを向かずに訊いてきた
「戸嶋さん、この長峰ってカメラマン、ご存じですか?」
「うーん、覚えはないなあ。この奥穂高はいいなと思うけど… Sさんとか知ってるかな」
顔の広い写真部OBを思い出しながら答えると、もし分かったら教えて下さい、と山科が言う。その妙に真剣な口調に思わず、分かった、と頷きながら改めて後輩を見直す。
彼はとても不思議な表情をしていた。
何処か困ったような、それでも嬉しそうな眼差しに、ふと、いまなら訊けるかな、と結佳は彼から視線を外して、たずねた。
「あのさ、山科君の彼女ってどんな人?」
「え? なんですかいきなり」
「いやちょっと、あの山科君にタバコ辞めさせるなんて、そうとうな猛者だなと思ってさ」
なんでもないように言えたかなと、結佳が内心ひやひやしていると、彼は「そうですねえ」となんだか諦めたような声でまた、ぴっと写真を指差した。
「こんな感じです」
冬の奥穂高、と、そう言って彼は笑った。
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