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匂い
無茶苦茶な仕事だった。
かなり個性的な写真集であることは確かだが、コンセプトは悪くないし、参加アーティストの気概を知っていれば尚、骨を折るだけの価値はある。しかし、このご時世、スポンサーや関係者の調整と折衝だけでほぼスケジュールの7割を使い果たし、最重要なはずの編集にほとんど時間が割けなくなった。
ということで、結局、フリーライター兼カメラマンの戸嶋結佳は担当編集者と作業部屋に詰めていた。
「…そろそろ平面で寝たいっす、おれ」
「寝てもいいよ、明後日なら」
「デスヨネー」
ははは、と乾いた笑い声を上げたのは某出版社の担当で、大学の後輩でもある時任だった。といっても、学生時代に直接の関わりがあったわけではなく、たまたま共通の友人が居るというだけだ。しかし、こういう繋がりがあればこそ、こんな厳しいスケジュールの仕事を押し込めたのだ。
まあ、この章も一区切りだし、と結佳はディスプレイから視線を切って、マグカップを取り上げた。
「そろそろ休憩しよっか」
「待ってました!」
じゃあ行きますか、と急に元気になる時任に、結佳は苦笑を禁じ得ない。
二人とも近頃では珍しいスモーカで、休憩となれば、どんどん遠く狭くなる喫煙室(ほとんど金魚鉢のようだ)にコーヒー持参で籠もることになる。
ド深夜だ。せめてこんな時くらい良いコーヒーを、と時任がカプセル型のコーヒーメーカでエスプレッソを煎れる。芳ばしい香りと共に各々、自分の煙草を取り出して、手慣れたルーチンで火を点ける。結佳がハイトーンアッシュの前髪をかき上げると、その風に紫煙がかすかに揺れた。
この頃、結佳がのんでいる煙草は知り合いから譲ってもらった珍しい銘柄で、独特の薫りが特徴だった。その、どことなくスパイシィで甘い煙が漂うと、
「あー、戸嶋さんの匂いがする」
ため息と共に吐き出された時任の言葉に、不覚にも少したじろいだ。
いや、むしろときめいたと言うべきだろうか、と思い直してから、結佳はそっと苦笑した。こういうところで立ち止まるあたりが、もうダメなのだ。「抱こうか?」ぐらいの軽口が叩ければいいのに、と胸の内で呟いてから、
「そういやさ、山科君、タバコ辞めたらしいよ」
共通の友人の名を出して誤魔化す。時任ははっと顔を上げる。
「え、ええ?! 山科が?!」
「そうそう、意外だよねえ」
「あいつは肺がんになっても吸ってると思ってました… マジか。ん? 山科に会ったんすか?」
学生時代、時任がバドミントン部でエースの座を争っていた同期と、結佳が出入りしていた写真部で知り合った後輩が同一人物だったのだ。
「うん、たまたまね。ほら、この間、大阪で○○賞展あったでしょ。山科君、いま京都だから見に来てて」
時任は、ああ、あいつ今はK大でしたっけ、と頷いたが、
「てか、戸嶋さんが入選したやつじゃないっすか。もう、早く言って下さいよ、お祝いしないと」
「どうもありがとう」
「で、どうでした、山科。元気でした?」
「相変わらずイケメンだったね。周りのお客さん、写真じゃなくて彼、見てたもん」
でしょうね、と時任はからからと笑う。
共通の友人は非常に端麗な容姿をしていたが、更に頭脳のインパクトも大で、今は京都で物理学者の卵をやっている。
「あいつ、外見はアレだけど、中身はただの理系オタクですよね。いいヤツだけど」
「まあ、科学者なんてオタクでなんぼでしょ。JAXAとかカミオカンデの写真とか見せてもらったけど、なかなか良かったよ」
それ研究っつーか趣味が八割で行ったんでしょうねー、と言いながら、時任はぷかりと煙を吐いた。
「そういや、今年は正月に逢いそびれたし、去年もほぼ入れ違いで… しばらく逢ってなかったかー。まだ学生ですよね」
「もうそろそろ博士課程終わるんじゃない? 京都行ったの、4年生のときだっけ」
「ですね、指導教官がK大に移るとかって… そのままドクタまで行くとは思わなかったけど」
と頷く時任だが、ふっと真顔になって訊いてきた。
「そういや、戸嶋さん、ほんとに山科と付き合ってなかったんですか?」
「ええっ?! 今さらなに言ってんの。ないない」
顔を顰めて、ぱたぱたと手を振る結佳に、時任はすこし首を捻る。「でも仲良かったですよね」と言う鼻の頭に、少しシワがよった。妙な言い方だが、そんな時任が可愛らしくて、結佳は唇を笑みの形にしたまま新しい煙草を取り出した。以前なら煩わしいと思っていた類の話題だが、三十を過ぎると冗談のひとつだ。
「そういや、タバコ辞めたの、いまの彼女のせいらしいよ」
「うっそだあ! や、え、ほんとに?」
あいつが女のために禁煙…! と衝撃を受けているらしい時任に「びっくりだよね」と笑いながら、結佳はその話を聞いた日のことを思い出していた。
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