臥龍のしっぽ

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 澪(みお)がアルバイト募集の張り紙を見つけたのは、大学生最初の夏休みも折り返しの八月末のことだった。並木の銀杏がまだ緑濃い残暑の日差しの中、行きつけの本屋の出入り口近くのガラスに貼られた紙に目を奪われていた。その条件がまさに自分のための求人であるかのように感じて、その店の文具売り場で履歴書用紙を買い、その日のうちに電話して面接の日程を押さえた。店長ともう一人の社員さんによる面接で「いつから働けるの?」と質問された澪は、「今日からでも働けます」と顔を輝かせた。  採用の連絡があり、澪は九月後半からアルバイトとしてその本屋で働くことになった。シフトは夕方から閉店までで、週に三日ほど。給料が口座に入るのが十月下旬になってからというのが残念だったが、継続して収入が得られる喜びは大きかった。何度かやった単発の仕事では、苦労の割に月単位ではあまり稼ぎにはならなかった。本屋でアルバイトというのが大学生活での憧れの一つだった澪は、友人に「ダサい」と笑われた貸与品のチェックのシャツも喜んで着た。  夕方のシフトは社員一人にアルバイト三人が通常だった。仕事を教えてくれたのは、高橋さんというフリーターの女性だった。身長百五十センチメートルの澪からも小柄に見えた。小動物のように小股で歩く彼女を、澪は年下じゃないかと疑っていた。 「同い年だよ。八重樫ちゃんも十八歳でしょ?前から言おうと思っていたけど、タメ口でいいから」  十月に入ったある日、店の裏手にある更衣室で「高橋さんて何歳なんですか?」と尋ねた澪に、彼女は手をひらひら振ってそう答えた。年齢や学生であることといった澪の素性は社員さんから知らされていたという。 「今日はもう一人も同い年だよ」  シフト交代前には事務室で朝礼が行われることになっていた。その日発売の主な新作や特集コーナーの移動といった連絡事項の伝達が店長からあり、挨拶やモットーの唱和で終わるそれは夕方にもかかわらず「朝礼」と呼ばれていた。隣接するレンタル店と一緒に行われる朝礼に、確かに初めて見る顔があった。澪より少し背が高い程度の小柄な体は細く、その顔は小ぶりな鼻を中心にきれいに整っていた。なるほどこれが関東の顔立ちかと澪は思わず見入ってしまった。とりわけ目を引いたのが、女の子みたいな大きなつり目がちの目。迷いも戸惑いもなく見つめる北風のような顔は、氷のネクタイを締めて白衣を羽織ったらさそがし似合うだろうと妄想を広げさせた。話せるようになりたいな、と澪は思った。それが深山(みやま)との出会いだった。 「こちら深山くん」  売り場に入って昼のパートさんと交代すると、高橋さんは早速深山を澪に紹介した。 「遲澤(おそざわ)です。よろしく。地元民だし一応この店では先輩だから、わからないことがあったら聞いてね」 「先月から入りました、八重樫です。よろしくお願いします」  澪は名札に目をやった。「遲澤」と書かれた名札には、最短でも三か月間は付けたままという「研修中」の札がすでになかった。澪はちょっとためらってから尋ねた。 「えっと、すみません。深山さん、ていうのは?」  深山は高橋さんと顔を見合わせた。 「遲澤深山がフルネームだよ。それに敬語じゃなくていいよ」  深山が淡々と述べた。 「遲澤って苗字、この辺には割といるけど全国的には珍しいみたいだねー。下の名前が深山っていうのもレアだよねぇ」  高橋さんが深山に手をひらひらさせた。「高校の時、遲澤はクラスに常に二人いましたよ。高橋さんの高校にだって何人かはいたんじゃないですか」と答えた。 「遲澤くんて、高橋さんに敬語なんだね」  澪の言葉に深山は一瞬不思議そうな顔をして、高橋さんに目を向けた。 「また鯖読んで十八だって騙したんですね」 「えっ、年上だったんですか?」 「この人こう見えて二十歳だよ」 「いいじゃん別にぃ。あたしの心はいつも十八だよ」 「見た目はむしろ小六くらいですよね」 「深山くんてちょっと失礼だよねー。八重樫ちゃんも気をつけなー」  その日は来客も搬入の雑誌も少なく、澪は文庫用のブックカバーを折り貯めて過ごした。レジの中のレシート用紙の交換を初めて教わった。教えてくれたのは深山だった。そのことを澪はポケットのメモ帳にしたためた。  閉店後、高橋さんが自動販売機で買ってくれた飲み物を飲みながら、三人で店舗裏の駐車場で少し話した。 「同級生にかんぱーい」  高橋さんがコーンポタージュの缶を前に出した。おそらくボケたのであろう「同級生」という部分に対してツッコミを入れるべきか澪は迷ったが、深山がそれを無視して「乾杯」とだけ唱和したのでそれにならった。飲みながら仰いだ空には夏の大三角が輝いていた。 「八重樫さんは下の名前なんていうの?」  三ツ矢サイダーを手にした深山が訊いた。 「澪。さんずいにゼロの零って書いて、一文字の澪」  澪は指で空中に自分の字を書いた。 「へぇ。水がゼロ…」  深山はつぶやきながら何か考え込んだ。  澪は自分の三ツ矢サイダーを一口飲んだ。本当はあったかいお茶が良かったけれどもまだ自動販売機にはなく、深山との出会いの記念のつもりで彼と同じ飲み物を選んだ。 「あたしその字書けないなあ。難しくない?」  高橋さんはポタージュをちびりちびりと飲んでいた。 「うん。小学生の頃は難しくて苦労した。樫って字も画数が多くて、テストの時とか名前で損した気分だった」 「あ、わかる。苗字が『林』なんかだとあっという間に書けてうらやましかった」 「そう。『田中』とかね」 「八重樫って、この辺じゃ聞かない苗字だけど、出身はどこなの?」  自分にかけられる深山の声を聞くたびに、澪はどきっとした。死角から射られるように感じた。今の質問も不意打ちだった。内容はなんて事ないのに。 「岩手。町の名前言ってもわからないだろうけど、青森に近い方だよ」 「へぇ、岩手か」  今日初めて会った深山との会話を楽しんでいるのを、澪は自覚していた。イケメン同級生とお近づきになれて、仕事の後でも一緒にいられることに心が浮かれた。彼が大きな瞳でまっすぐ見つめながらクールな表情で「八重樫さん」と呼んでくれるのがくすぐったかった。この時間を作ってくれた高橋さんに心の中で感謝した。けれども澪は、その次の深山の言葉に心底がっかりした。 「全然訛ってないね」  涼しげな深山の声。しかし、お前もか遲澤くん。栃木に引っ越して来て半年。何度同じ事を言われたことか。その度に適当に受け流してきた。けれどそれを言ってくるのが栃木県民なら、私にだって最近ようやく身につけた切り返しがある。  間髪入れず澪は皮肉たっぷりに言い返した。 「U字工事に言われたくないわ」  言われた深山は「あはは」と声を上げて笑った。その屈託ない笑顔はベタな表現をすれば雪解けの太陽のようで、澪はそんな彼をずるいなと思った。  翌日は一限目から授業だというのに、澪はまだ帰りたくなかった。深山は二限目からだということで会話に付き合ってくれた。それから一時間ほどの会話で澪はいくつもの深山情報を本人から仕入れた。深山も同じ大学に通っていること。ただし澪と違い薬学部だということ。前期に一コマだけ同じ授業を選んでいたこと。住まいは実家で、この本屋から自転車で数分の距離だということ。  大学の話となると門外漢の高橋さんは相変わらずコーンポタージュ缶をすすっていた。  澪が次にシフトに入っていたのは、その二日後だった。高橋さんは一緒だったが、深山はシフトに入っていなかった。それを残念に思いながら澪が先日のお礼を言うと、高橋さんは「いいよいいよ」と手をひらひらさせた。 「深山くん、かっこいいよね」  高橋さんが澪の顔を下から覗き込んだ。 「うん。顔はいい。でも確かに失礼だと思った。岩手ってだけで訛ってるっていう先入観とか」  正直に答えながら澪は、きっとあの夜は自分の浮かれた気持ちが態度に出てしまっていたんだろうなと反省した。そんな澪に、高橋さんは言葉を続けた。 「深山くんて遠距離恋愛の彼女がいるんだよ」  彼女がいる。その言葉はそれなりの破壊力で澪の胸を突いた。きっと恋人がいるんだろうなと思ってはいたけれど、いざそれを知ると失望は思ったよりずっと大きかった。衝撃だった。そして高橋さんがそれを告げた意図をはかりかねて、澪は何も言えずにいた。 「八重樫ちゃんは採用されてからしばらく深山くんと会わなかったと思うけど、彼、恋人の住んでる大阪に行っていたんだよ」 「そうなんですか?」 「そうなんですよー」  思わず敬語が口から出る。動揺を高橋さんに見透かされているようで、澪は恥ずかしかった。 「八重樫ちゃんが九月から入ったのも、深山くんが彼女のところへ行っちゃうからだったんだー。中学の時のクラスメイトなんだって。写真見せてもらったけどユルフワな感じで可愛かったよ。きっと八重樫ちゃんにも写真見せてくれるよー。ラブラブなやつ」  高橋さんの一言ひとことが澪の心を抉った。それでも澪は、よかったと思った。もっと深山と親しくなってから知ったら、もっと傷は深かった。浅いうちでよかった。 「ええっ?遲澤くんあんなにクールな感じなのに」 「そうなんだよぉ。彼女にベタ惚れでキモいくらいなんだよー」 「うわ」 「あ、でね。おととい仕事明けに三人でジュース飲んだでしょ。深山くんてああいうの基本しないんだ。彼女に疑われたくないのかな。ほかの女子と二人っきりには絶対ならない。あたしだって同棲中の彼氏いるのにさあ、ご飯とか何回誘ってもダメだったの。『彼氏さんも一緒ならいいですけど』とか言って。この前は三人だったからオッケーだったんだと思う」  この二日間、深山と二人きりのシチュエーションを想像して楽しんでいた澪の失望はますます大きくなった。  けれども、すっきりもしていた。会ったその日にしか話をしていないけれど、恋人を大切にしそうなところや、自分を貫くところは、彼らしいなと思った。  深山を好きになるかもしれないと感じていた。けれどもそれが望みのないことならば、今のうちから割り切っておける。    翌日のシフトで澪は深山と一緒になった。仕事の合間に早速恋人の話でからかうと、深山は面倒そうな顔をしながらもあれこれと彼女の話を澪に聞かせた。頼み込んで、仕事の後に写真も見せてもらった。高橋さんの言葉通り、二人きりの状況は拒まれ、事務室のタイムカード前でだった。事務室には常に社員さんがいた。 「ほれ」とぞんざいに見せられたスマホの画面には、栗色のボブカットを緩くカールさせた女の子が微笑んでいた。染めたこともパーマをかけたこともないストレートの髪をポニーテールにしている自分とは全然違うタイプ。それだけを澪は強く認識した。 「うわ、かわいい」  そう言いながら澪は画面をピンチインした。 「勝手に操作するなよ」  深山はスマホをポケットにしまった。 「ごめんね。彼女さんの自撮りの写真だったから、きっと隣に遲澤くんも微笑んでるはずって思って」 「彼女の写真っていうからわざわざ拡大したのに」 「えーいいよ余計なことしなくて」 「見せてもらっておいて余計なことって」 「でもいいね。彼女と写真シェアして。ラブラブだね」 「八重樫さんはいないの、彼氏?」 「いない。いたことない」  澪が首を振る。ポニーテールも左右に揺れた。 「二人は仲いいな。前から知り合いだったの?」  パソコンに向かっていた社員さんが振り向いて深山に言った。 「三日前に初対面で、話をするのは今日が二日目です」 「そうか。すぐに仲良くなれていいなあ若いのは。でも仕事が終わったんなら早く上がれ。タイムカード押したんだろ?」  事務所を出るとすぐに「おつかれさま」と深山は自転車で帰ってしまった。曇りで空に星の姿はなかった。澪の胸にはさっき一瞬だけ画面に見えた、恋人と並ぶ深山の表情が浮かび上がっていた。まだ直に見たことのない、柔らかくて満足そうな笑顔だった。  その後、月に数回ではあったけれど澪は深山とアルバイトでシフトが同じになることがあった。その日を澪は「当たりの日」として数えた。  深山は人にものを教えるのがうまかった。褒めて伸ばすことが得意だった。返金のレジ操作を忘れ、二度同じことを尋ねてもそれを咎めたりしなかった。途中からは思い出して、メモを見ながら一人で操作できた事を成長として賛美した。 「腕を上げたな、娘」  真顔でそんな言葉をくれる深山からもっと褒めてもらいたくて、澪は仕事を覚える努力をした。 「パパの教え方が上手だからだよ」  演技みたいな褒め言葉だったら、自分も演技していい。ちょっと甘えた関係を演じている時間が好きだった。澪のセリフに笑ってくれる深山がいとおしかった。その直後には心の中で「バイト仲間、バイト仲間」と唱えていた。それでも、学校やアパートにいる一人の時間、澪が思い浮かべるのは深山の顔だった。  深山に彼女がいることは重々承知していた。高校時代に付き合い始めて、今は彼女が進学のため関西に住んで遠距離恋愛。このアルバイトで得たお金も、半分は彼女とのデートのため。そんな話を本人から教えてもらったりもした。それでも澪は深山に惹かれていってしまっていた。  澪の初恋は中学の時だった。三年生で初めて同じクラスになった男子で、隣の席で軽口を言い合って仲良くなった。そしてあっという間に恋に落ちた。恋というものがこんなにも気持ちを左右するものなのかと、嬉しさや妬まさを感じるたびに思った。彼には他のクラスに好きな子がいることを、澪はなんとなく感じ取っていた。その子はピアノが上手で、小学校が彼と同じだった。昼休みや学年集会、澪の視線の先にいる彼の視線は、その子のクラスを向いていた。そして片思いのまま、彼に思いを告げずに卒業してしまった。結局彼が好きな人とどうなったかは、今も知らない。  高校に入って好きになった人は、クラスのムードメーカーだった。初めは少し苦手意識を持っていたけれど、一年、二年と同じクラスで過ごすうちに話す機会も増えていった。友達といるときは冗談が好きで、周りの男子を笑わせていた。その一方で、澪と二人でいるときには気遣いや優しさも見せてくれた。それは、黒板の高い所を拭くのを代わってくれたり、澪が運んでいたゴミを半分持ってくれたりといった何気ないものだった。それでも澪にはとても嬉しいことだった。けれど、 彼には他校に通う彼女がいた。中学が同じだったんだという。初めて二人が並んで笑っている姿に出くわした時、胸に穴が開いた。心臓が早鐘を打つのに顔からは血の気が引いた。何もかもが指の間からすり抜けていくのがわかった。世界から取り残された気分だった。その夜、澪は何も手につかずただ泣き尽くした。その後二人は揃って札幌の大学に進学した。その時まだ澪の中には恋心がくすぶっていた。  恋した二人のどちらにも、澪は好きだと言えなかった。  澪がこの大学を選んだのは、そんな地元から離れたかったのと、北には行きたくなかったからだった。東京には何となく憧れと恐れがあり、近づきたい気持ちと距離を置きたい気持ちが心に同居していた。その点栃木は新幹線での帰省も楽で、在来線で東京に日帰りで遊びにも行ける。それを言い訳にしながら「放射線技師の資格なら青森の大学でも取れるでしょう?」という親や学校の意見を曖昧な返事でかわし、彼女は栃木県大田原市での一人暮らしを手に入れていた。逃げてきたという自覚は、ある。  今、遲澤深山というバイト仲間で同じ大学の同級生の存在が、澪の中で日に日に大きくなっていた。そして自分の恋愛遍歴をたどって、澪はため息をついた。  自分には誰にも話していない本心がある。同じように、自分がよく知っている人にも、自分の知らない物語がある。世界はきっとそうやって輝いている。けれどもそれが、今の澪には辛かった。  ある寒い日のことだった。仕事中に食べ物の話題になった。寒い日にはたい焼きを食べたいと言った澪に深山が 「それなら蛇尾(さび)橋のたもとのたい焼き屋がおすすめだよ」と教えた。澪が初めて聞く橋の名前だった。 「蛇尾橋って、どこ?」 「八重樫さん、大学行くときバスでしょ?銀杏並木の通りをバスで大学方面に進んで行って、町と田舎の境になっている川が蛇尾川。蛇尾川をバスが越える橋の、二つ上流が蛇尾橋」  澪は深山の説明を頭に描いた。川の見当はついた。バスはこの店の前を通り、コンビニの十字路を過ぎ、ピアノ教室の信号を越えると川を渡る。川の上流に目を向けると山が連なり、それが那須の山々だというのも今はもう知っている。教えてくれたのは深山だ。そして川を渡ると道の両側に建物がなくなる。切り通しの坂道を越えるまで、本当に家一軒もない。澪は今日初めてその川の名前を知った。上流には確かに橋も見えた。木の橋だったので、なおさら田舎を感じさせた。 「その木の橋のもう一つ上流に架かるのが蛇尾橋。何百メートルかしか離れてないよ」 「そこにたい焼き屋があるの?」 「そう。秋から四月頃までしかやってない店なんだ。営業中は行列ができるよ」 「そうなんだ。知らなかった」 「あそこほんと美味しいよー。八重樫ちゃんもぜひその場で食べるといいよ」  高橋さんも手をひらひらさせた。  その次の月曜日。午前中の授業がない澪は自転車でその店を探した。十時くらいには開いている、という二人の情報を信じてその時間に探し出した店は、予想よりはるかに小さな、お祭りの出店のようなサイズの小屋だった。木造にトタンを巻いた小屋はガラス窓とカーテンが閉められ、定休日を知らせる札が置かれていた。  仕方なく澪は辺りを散策した。橋から見下ろした川は驚くほど澄んでいた。エメラルドグリーンの水は清らかで、底の石まで見通せた。汚いという印象は持っていなかったけれど、これほどきれいな水だということも知らなかった。たい焼き屋の対岸には下流に向かって川沿いの道が整備され、澪はその道を自転車で進んだ。北からの風は冷たくも、流れに沿って南進する澪の背を押し、ポニーテールを遊ばせた。堰には鴨が泳ぎ、川の向こうには芝生の公園、ラグビー場や野球場が広がっていた。すぐに木の橋にたどり着いたものの、それを渡ることなく道を進んだ。普段バスで通る橋には平仮名で「さびがわ」と彫られていた。さびは錆を連想させる。玲瓏とした水とは似つかない川の名前を不思議に思いながら、澪は大学側へと前輪を向けた。たい焼きは食べそびれたけれど午後の授業の用意は手元にあったので、自転車で大学に向かうことにした。  その日はちょうどバイトで深山と一緒になり、澪が昼間のことを話すと彼は残念がった。そして点検のためにレジの小銭をコインカウンターに並べながら澪に尋ねた。 「橋の向こう側に行ったんなら、解説の案内板がなかった?川の名前の由来とかが書いてあるはずなんだけど」 「案内板?」  澪が思い起こしても、案内板は目につかなかった。 「気がつかなかったみたい」 「そっか。設置場所はちょっと上流側だったかも。そこにはね、蛇尾川が「水無川」と「暴れ川」の二つの顔を持つ川だって書いているんだよ」 「水、あるじゃん」  澪はもう一つのレジの番をしながら、深山が点検中のレジのカウンターで単行本用のブックカバーを折っていた。澪にとっての、至福のひと時。隣に並んで、ひそひそ声で会話が続いた。折りながら、今日見た水の色を思い出した。夏にだって枯れてはいなかったはずだ。 「違うよ。もっと上流、那須塩原市の方だと伏流していて川に水がないんだよ。川を普通の車が走って渡れるくらい。そして大田原市内で地表に出てくる」 「伏流?」 「地下に潜ってるの。この辺、那須野が原の地面は石ころだらけで水がしみ込みやすいから、もっと深い場所にある水を通さない土の層まで川が潜って流れているんだよ」 「そうなんだ。じゃあ暴れ川っていうのは?」 「大雨が降ると水位はあっという間に砂利層の上まで達して、時には洪水を起こす。さっき八重樫さんが話したラグビー場とかまで水が上がるんだよ。で、水が引くと芝生で魚がピチピチ跳ねてる」 「え、でも、あのラグビー場の高さ、川から人の背丈くらいしかなかったと思うよ。それくらいの増水って割と普通じゃない?」 「実際に見ると結構な濁流だよ。堤防を越えるような氾濫は見たことないけど」  話しながらレジ点検を終えた深山はレジを閉めてから言った。 「あの川の名前は蛇尾川だけど、見えているのは本当にしっぽの部分だけじゃないかな。きっと川本体はほとんど見えてないんだよ」 「砂利に隠れているから?」 「そう。身を潜めている。臥龍のように」 「龍…」  その瞳なら本当に地面を透かして地下を走る川の姿を捉えているんじゃないかと、澪は深山の瞳に思った。  新年を迎え、澪の名札にくっついていた「研修中」の札が外された。後期のレポートやテストに追われながらもアルバイトの日数を減らすことはしなかった。慌ただしく過ごすうちに二年生になった。もう澪は、深山への思いが恋なんだと認めていた。そして結局一年生のうちに蛇尾橋のたい焼き屋のたい焼きを食べることがなかった。それを深山に告げると「せっかくすすめたのに」となじられた。そして 「おれもこの冬は一匹も食べなかったな」 と深山は遠い目をした。  時代が平成から令和へ移ろうとしていた。その長いゴールデンウィークに旅行を計画している人も澪の周囲だけでも何人もいた。深山も十連休の前半の休みを取った。大阪に、とまでは聞かなかったけれど、明らかにそのためだった。その分のシフトを澪が埋めた。  ゴールデンウィークに入る前の週の金曜日、澪の携帯電話に深山からのメッセージが入った。そこには、翌日のアルバイトを代わって欲しいと書かれていた。特に予定がなかったので代わる事は問題なかった。けれども滅多にない深山からのメッセージにどう返そうか画面を眺めながら考えているうちに、今度は深山からの着信があった。 「ごめん、今話しても平気?明日なんだけど、代わりにシフトに入ってもらえないかな。後で埋め合わせはするから」  その声は沈み、話し方には焦りか苛立ちが感じられた。澪が泣きそうになってしまうきついクレームにでも平静に対応してきたいつもの深山ではなかった。彼女がらみなんだな。澪はそう思うと目を伏せた。 「うん、いいよ。じゃあ明日は私が出るね」  澪は努めて明るく振る舞った。本当は「埋め合わせには二人で映画観た後にランチがいいな」とか言ってみたかった。けれども、それは叶わない願いだし、冗談としても今の様子の深山には言える内容ではなかった。  令和元年の暑い五月が過ぎ、長い梅雨も明けて澪は夏休みを迎えていた。その間深山の様子は澪の見る限りそれまでと変わりなかった。相変わらずその目は澪を射抜き、たまに見せる笑顔は澪の体温を上げた。けれどもこの夏休み、深山はシフト希望表に連続休暇を書かなかった。澪はそれを、八月のシフト表の深山の行に例月通りの数の丸印が飛び飛びに記されているのを見て知った。 「別れちゃったのかな」  深山が休みの日、高橋さんがそう呟いた。 「どうなのかな。彼女がこっちに帰省するのかもしれないよ」  自分で言っておきながら、それはあんまりなさそうだなと澪は思った。運転免許を地元での合宿で取るとか考えられたけれど、彼女がもう免許を持っていることを以前深山の口から聞いていた。 「八重樫ちゃんと深山くんてお似合いだなってずっと思ってたんだけど」  澪は顔が赤くなるのを感じた。それと同時に、体が少し冷めるような感覚も覚えた。なぜそう感じたのかはわからなかった。 「えーやだあ。高橋さんの方が似合うんじゃない?ボケとボケ殺しのカップルで」  澪は高橋さんの仕草を真似て手をひらひらさせた。それが精一杯のごまかしだった。  夏休みは事もなく過ぎた。澪のアルバイトは二年目に入っていた。後期の授業が一通り初回を終えた十月のある日、澪に初めての経験が訪れた。 「明日、もし空いてる時間あったら、例のたい焼き屋一緒に行かない?」  アルバイト明けの夜の駐車場で、深山の言葉に澪は固まっていた。 「ふたりで?」  そのたった四音を、澪は途切れ途切れにしか言えなかった。深山が二人きりを許すというなら、それが意味する事は深山と彼女との破局だった。 「うん。まあ、嫌ならいいけど」 「行く!」  食いつくような澪の言葉に、深山は笑みをこぼした。二人とも三コマまでの授業だったので、その後に校内で待ち合わせをして行くことにした。  その日、澪は深山の車に二人きりで乗った。これまでも二度乗せてもらった事はあったけれど、二人きりは初めてだった。澪の手は緊張でかすかに汗ばんでいた。  たい焼き屋にはすぐに着いた。橋とたい焼き屋の間に車を止めて、二人で列に並んだ。先客は三人いた。皆、箱に何匹もたい焼きを詰めてもらっていた。その間澪は、澪と深山は二人で二匹頼んだ。 「たい焼きくらいいいよ」  そう言って深山は二匹分の代金、二百四十円を出した。一匹ずつ紙袋に入れられたたい焼きを、澪と深山は車にも乗らず食べ始めた。 「いただきます」  澪は一口目を小さくかじった。表面のサクサクとした食感が心地よく、さらに噛み進めると食感はもっちりに変わった。予想外の食感の素晴らしさに目を見開きながら噛みちぎると、口の中にとろける粒あんは火傷するかと思う熱さだった。 「おいしいでしょ?」  深山の手にするたい焼きはまだ一口もかじっていなかった。 「うん、おいしい。びっくりした」  澪は周りの皮が薄く焼きあがった部分を口にした。そこはカリカリと香ばしかった。それを見て深山も自分の分を食べ始めた。  澪は瞬く間にたい焼きを食べ切った。この店のたい焼きは背びれや腹びれにはあんこがなく、しっぽにはあんが詰まっていた。 「ありがとう。おいしかった」  最後に食べたしっぽの甘さを口の中に余しながら、ごちそうさまの後に澪は深山にお礼をした。 「気に入ったみたいでよかったよ」  深山はまだたい焼きを半分残していた。 「ねえ、この先に一里塚があるの?」 「一里塚?」 「そう。1.8キロメートルって、大学より手前だよね」  澪はその場にあった立て札を見ていた。立て札には左のほうに一里塚1.8KM、右の方には薬師堂1.2KMと書かれていた。 「あるけど、大学とは方角が違うんだ。大学は橋渡ってまっすぐだけど、一里塚は渡ってすぐ左に折れた先、昔の街道沿いなんだよ」 「そうなんだ」 「都が奈良にあった頃から、つい最近まで、この旧陸羽街道は都と東北を結ぶ主要道路だったんだよ」 「へえー」  澪は橋に歩みを進め、欄干に手を置いて想像した。丸石が無数に転がるそばを、澄んだ水が流れる。見える範囲では、全体的にこの川の水深は浅い。 「明治十七年に新陸羽街道、今の国道4号が西那須野に通るまで、長らくこの道が街道として旅にも大名行列にも使われていたんだ」 「え?」  澪は欄干から身を起こして深山に向き直った。深山もたい焼きを食べ終えていた。 「ついこの前までって、その、明治十七年までのこと?」 「ああ」 「何それ全然この前なんかじゃないじゃない。明治って。遲澤くんのおじいちゃんおばあちゃんだって生まれてないでしょ。遲澤くんの時間の感覚おかしいから。前だって那須の山の名前教えてくれたとき、最近噴火したっていうからうわやばいねって思ったら室町時代だって言うし」 「山の歴史が六十万年。それに比べたら、六百年前の噴火なんて最近じゃん」  澪は釈然としない気持ちで上流を望んだ。その彼方には那須連山がそびえる。中央に茶臼岳、向かって右が朝日岳で左には最高峰の三本槍岳。その山々を澪に教えたのは深山だった。噴火の話はその時に深山がしていた。言われてみれば六十万年に比べれば六百年なんて千分の一しかない。 「そういえば、八重樫さんの下の名前は澪なんだよね。さんずいに零の」 「うん、そうだよ」 「この川みたいじゃない?」  澪は意味がつかめなかった。それが漢字のことなのか、自分自身のことかも分からず、どちらにしてもこの蛇尾川とは結びつかなかった。あるいは、明治時代をついこの前と言う深山の感覚ならば繋がるのかもしれない。 「字面は水がゼロ、水無し川。でも意味としては船の通り道のような水深のあるところ。つまり水が豊富な場所。水脈って書く『みお』もあるでしょ。水が無いような見た目で、実はたくさん流れている」 「なるほど」  こじつけみたいな話にも聞こえたけれど、わかるような気もした。 「澪って呼んでもいい?」  色々と唐突な話が続いて、澪は振り回されていた。けれども、この話を蹴る理由はなかった。下の名前で呼び会える日を期待していた。深山から言ってくれたことがうれしかった。 「いいよ、深山」  想像の中では何度か呼んでみた下の名前。いざ口にすると、やっぱり照れくさかった。 「ありがと、澪」  澪がはにかむと、深山も笑顔を見せた。 「彼女さんとは、別れちゃったの?」  思い切って澪は、気になっていたことを尋ねた。それに対して深山は言葉数少なく答えた。 「ああ、うん。向こうに、好きな人ができて」  それは、とてもショックなことだったんだろうなと澪は同情した。 「夏休み中?」 「いや、ゴールデンウィーク前。前にバイトの日代わってもらった時」  その答えは澪には意外だった。ゴールデンウィークを過ぎてからも深山の態度や表情は普段と変わりがなかった。シフトを代わってほしいという電話で感じた焦りや不安は幻だったんじゃないかと思うほど、その後は普通だった。 「そんなに前だったんだ。気づかなかった」 「夏休み前は、なんとなく、気づかれないように振る舞ってたから」 「そうなんだ。彼女さんのこと大好きだったんでしょ?すごく大事にしてたよね」 「そのつもりだったけど…遠距離だったしね」 「そっか」  至近距離での片思いしか恋愛経験のない澪には、遠距離恋愛の壊れやすさが実感できなかった。恋人が遠いからと、近くにいる他の人に気持ちが移ってしまうなんてことが想像できなかった。 「澪にはさ、感謝してる」 「ん?バイト代わったこと?」 「それもだけど、シフトとかで勘付いてもいいのにあれこれ詮索しないでいてくれたこと」 「それは高橋さんとかだって一緒でしょ」 「まあね。でも、別れて結構辛かったけど、澪たちが普段通りに接してくれて、なんだか助かってたんだよ」 「そうなんだ」  澪は心の中の天気が急変していくのを感じていた。下の名前で呼びあった時の晴れやかな気分から一変していた。黒い雲が厚く垂れ込めてきていた。雨が降るのは時間の問題だった。土砂降りの予感がしていた。  利用されてたんだ。澪はそう感じた。  深山は別れたことをずっと秘密にしていた。深山は別れた恋人のことが大好きだった。だから別れで深く傷ついた。そんな深山には、何も知らない澪がいつも通り近くにいることが幾ばくかの癒しになった。深山はその点に感謝していた。  けれど、そんなものは澪の望む形ではなかった。澪にしてみれば信頼して何でも話してくれたら嬉しかった。けれどそうじゃなかった。深山が求めていたのは、深山の痛みをわかってくれる澪ではなかった。自分でもわかっていた。打ち明けられたら普段どおりではいられない。慰めようとか、元気付けようとか思ってしまっただろう。変わらない関係を深山が望んでいたのならそれでは失敗だ。だからきっと深山は何も打ち明けなかった。  澪はさらに思った。それだけならまだいい。私は深山の失恋を、チャンスだとさえ思ってしまったかもしれない。砕けんばかりに傷ついた心にどうやって入り込もうかと企んだかもしれない。  気づかないところにも心はある。闇のように流れている。自分の汚い部分を深山に見透かされている気分だった。与えられたのは感謝の言葉だったのに、それ以上を望んでしまう自分がひどく小さく思えた。澪は泣いていた。泣くようなことじゃないと自分に言い聞かせながら、涙を止められなかった。 「ごめん。一人で帰る」  とても深山の隣にはいられず、袖で顔を隠しながら、澪は呆然とした深山に背を向けて歩き出した。  深山とたい焼きを食べたのは十月十日、木曜日だった。その日、澪のアルバイトは休みだった。土日は風花(かざはな)祭。風花とは、遠い山に降りながら強い風に運ばれ青空の広がる平地に舞い降りる雪のこと。澪と深山の通う大学は、学園祭にその美しい名を冠していた。しかし、風花祭は巨大台風の接近で木曜のうちに中止が決まっていた。アルバイトのシフトは互い違いで、次に深山に顔を合わせるのは早くても月曜日だと澪は読んだ。  土曜日。台風19号が本州に上陸し、東日本を縦断した。夕方から入っていたアルバイトはなくなった。台風が最接近する夜を待たず、昼から臨時休業となったからだ。土曜日だったことが本屋には幸いした。土曜日の夜は搬入がない。買い物に出ようかと澪は考えたけれど、日中にしてすでに暗く風の吹きつける外の様子を目の当たりにして玄関のドアを閉めた。雨はどれほど降るのだろうか。風はこれからも強くなるのだろうか。  停電のことも考え、澪は風呂を沸かし、ご飯を多めに炊き、カレーもルー一箱分作り、携帯電話をフル充電した。雨戸を閉めて早めに風呂に入り、お湯を張り直し、夕飯にカレーを食べている間に洗濯をして、食後に部屋に干した。  カレーには玉ねぎをたくさん入れた。玉ねぎを薄く切りすすめるほどに涙が出た。痛いほどの涙だった。自分がぼろぼろと涙を流すのがおかしくも快感だった。時間も玉ねぎもあったので六個も切った。切り終えた時にはボウルに山のようなスライス玉ねぎを積み上げて床に座りこみ、なぜ泣いているのかもわからずに痛む目を抑えた。鍋いっぱいの玉ねぎは、炒めるうちに片手にも乗りきる塊になった。そうして出来上がった飴色玉ねぎの甘口カレーは、澪がこれまで作ったカレーの中で最高の味だった。 「台風がすぐ近くを通るみたいだけど、あんたん家は大丈夫なの?」  岩手の実家からは母親が電話をかけてきた。大丈夫かどうかはわからないけれど、澪は状況をそのまま伝えた。  電話は新しい情報が母の元に届くたびにかかってきた。 「大田原市全域に避難指示」  はたまた 「『塩原ダムの緊急放水で箒川の水位が急激に上昇の見込み』ってこれ、アパートと大学の間の川じゃないよね?」  一体どこからそんなピンポイントの情報を集めているのかと不審がる澪に、母は大田原市役所の行なっている市民向けメールサービスに登録していると答えた。  雨風は雨戸越しでも伝わる強さで叩きつけ、ときにはアパートの建物ごと揺らした。テレビは各地の河川の様子を代わるがわる映した。当たり前だけれど、どこもかしこも夜だった。なんとなく甘くて温かいものが欲しくなった澪は、ココアを濃いめに入れて両手で包み込んで少しずつ飲んだ。  平地に建つアパートの二階に住む澪に、澪の母は避難を勧めなかった。外の様子は見えない。雨戸を開ける気にはならず、ドアもまた同じだった。道路が冠水していることも考えられた。スマホに届く友達からのメッセージに答えつつ、澪はただじっと、ベッドの上でココアをすすっていた。  夜十一時を回った頃、雨音がほとんどなくなった。時々強い風の音がしたけれど、雨は収まったようだった。テレビの台風情報でも、台風はこの近辺を通過した模様だった。  澪は寝ることにした。 「今度は竜巻注意報情報だって」  おやすみなさいのメールを送った後眠りの出鼻の母からの電話にも「多分大丈夫だよ」と答え、澪は眠りに落ちた。  その夜が明ける前、蛇尾川の堤防は大田原市内で決壊した。  朝、澪は母からの電話で蛇尾川の決壊を知った。メールに添付された地図を見る限り、現場は澪がバスで渡る橋よりもだいぶ下流のようだった。 「これ、大学に行く途中に渡る川でしょ。絶対近くに行っちゃダメだからね。様子を見ようとか考えるんじゃないよ」  澪は雨戸を開け、外の様子を確かめた。台風一過の青空とは言い難い曇り空だったけれど、雨風は落ち着き、倒れている物もなく、町は平穏を取り戻していたように見えた。市内で河川の堤防が決壊し、老人施設が孤立している状況とは思えなかった。地図上では広い範囲にわたって水田が濁流の中にあった。  きっと復旧には時間がかかんるだろう。澪は考えた。壊れた堤防は応急処置の後本格的に作り直され、より高い水位でも耐えられるものになるんだろう。  岩手県の内陸にある澪の地元は、震災の被害は少なかった。津波を受けた沿岸部には震災からだいぶ経ってから行った。港や浜は思い出の姿とは色々と違っていた。復興の名の下に、町はより強靭になっていた。それが澪には少し寂しかった。もちろん、そうしなければならないのもわかっていた。堤防はより高く、より強く。そうでなければ同じような天災がやってきたときに同じような被害を出してしまう。この町も、川の堤防をより強く作り直すのだろう。人が農耕を始め、川の側で暮らし始めてからずっとずっと繰り返されてきたように。 「人も同じなのかな」  人も、胸の中を嵐や高波が襲うたびに、心の堤防をより強固に築き直すのだろう。壊れても壊れても、洪水が涙になって溢れても、また立ち直るために心を強くしていかなければならないのだろう。それが澪には寂しかった。ダムも堤防も必要ない、自然のままで平穏な毎日を送りたかった。ざわめきも漣もなく人と繋がりたかった。そしてそんなことは無理なんだと、いつの頃からか知っていた。物心ついた頃にはわかっていたんだと思う。  澪は肩を回した。そして背筋を伸ばし胸を張り、顎を引いて肩の力を抜いた。 「謝ろう、深山に」  前を向いた澪は、そう声に出した。  緊張しながら月曜のアルバイトに行くと、社員さんから火曜と水曜も入れるか訊かれた。深山が昨日の閉店後、一週間休みを取らせて欲しいと店長に頼んだという。  深山が連続で休みを取って行く場所は、かつては恋人の元と決まっていた。今深山がどこにいるのか見当もつかず、澪の心は晴れなかった。  次の土曜日、澪は蛇尾川付近を散策した。  住宅街の方から河川敷の芝生の公園に向かった澪は、木の橋の手前で息を飲んだ。アスファルト舗装の道路が、その下の地面ごと流されて消失していた。木の橋は通行禁止になっていた。ラグビー場も野球場も濁流に飲まれた跡があり、芝生の上には軽石や枝があちこちに転がっていた。木の橋の方へ足を運ぶと、芝生の上には砂が厚く積もっていた。コンクリート製の橋脚には大量の竹や木が流れの形のままにへばりついていた。一週間前の台風の跡が今も生々しかった。  改めて眺める蛇尾川。澪にとっては、最初はただの変な名前の川だった。大学への行き帰りに無意識に渡るだけだった。 「ちょっと調べて、ちょっと想像すればわかることだよ」  深山が以前そう言っていたのを、澪は思い出していた。蛇尾川を臥龍と例えた時だ。そして思った。深山に教わらなければ私は蛇尾川を一頭の龍だと思うこともなく、卒業してこの地を去ったら川のことなんて忘れただろう。  河原には丸石が広がっていた。よほどの雨でなければ、これらすべてが水につかることはない。澪は考えて、想像した。丸石であるということは、水の流れによって転がり角が削られ続けた証。きっと長い歴史の中で増水や氾濫を繰り返してきたのだろう。この川は、潤いをもたらすのだろうか。氾濫は大地を肥やすのだろうか。  川沿いの遊歩道に厚く積もった砂の上を澪は歩いた。山から剥ぎ取られた岩が川で丸石へと削られた残骸。手に取った砂は海の浜の砂のように細かく、思い切り空に投げ上げると北風がさらさらと辺りに散らした。  たい焼き屋の前まで来て、やっぱり今日はいいかなと行列を素通りした。橋を渡りかけ、前に深山が言っていた蛇尾川の案内板の事を思い出して周囲を見回した。その時、見覚えのある車が澪とすれ違った。その車はすぐにウインカーを出して、橋を渡りきるとたい焼き屋の駐車場に止まった。  澪は運転手を待った。車から降りてきた深山は、片手を挙げて澪の方に歩いてきた。 「久しぶり」と言った澪に深山も「久しぶり」と返した。そしてすぐに「この前は、ごめん」と頭を下げた。 「おれ、自分のことばっかり話してた。自分勝手だった。ごめん」 「私こそごめんなさい。話の途中で、何も泣くような話じゃなかったのに一人で帰っちゃって」 「いや、澪にとっては泣くような話だったんだよ。ごめん」 「うん、ありがと」  会話はそこで途切れた。二人は川を見下ろした。台風がもたらした濁流は川底のコケを残らず剥ぎ取り、洗われた川底は水をますます透明に見せた。 「深山、なんだか少したくましくなったみたい」 「ああ。最近力仕事ばっかりしてたから」 「力仕事?」 「県南にボランティアしに行ってたんだ」 「ボランティア?大阪じゃなかったの?」 「大阪にはもう行かないよ」  深山は苦笑した。 「栃木市で畳剥がしたり床下の泥をスコップで掻き集めたり、畳捨てたりしてきた」 「そうだったんだ。偉いね。お疲れ様」 「ありがと。そういえば今週もまたバイト代わってもらってたよね。お礼がまだだった。ありがとう」  澪は心が少し軽くなるのを感じた。 「ねえ。前に言ってた埋め合わせって、今日お願いしてもいいかな?」 「ああ、何でもいいよ」 「じゃあさ、たい焼き半分こがいいな」 「え?」  深山が拍子抜けした顔で澪を見た。 「そんなのでいいの?せめて一匹おごるよ」 「半分こがいいの」    深山が買ってきたたい焼きを、澪が受け取った。 「このたい焼き、深山は頭としっぽ、どっちがいい?」  澪は紙袋からたい焼きを取り出し、深山に見せた。 「えっ、そういう半分?」 「ええっ、ほかにどう分けるの?」 「二枚におろして左右半身ずつ」 「やだ。そんな食べ方したくない」 「そう?まるでたい焼きの骨まで見えそうで放射線科っぽくない?」 「ぽくないし意味わかんないし気持ち悪い」 「じゃあどうする?」 「深山って、たい焼きは頭から食べる?」 「うん」 「私もそうなんだよね。じゃあさ」  澪はたい焼きの頭を深山の顔に突き出した。 「一口ずつかじっていって、最後のしっぽは半分こしようよ」 「ああ、いいよ」 「うそ、いいの?」 「何それ?自分で言っておいて。いいよ。先どうぞ」 「えー、深山のおごりなんだから、先に食べなよ」 「いいって。埋め合わせなんだから澪から食べなよ。冷めるよ」  澪はたい焼きを見つめた。温もりが指先から伝わってくる。食べるのがもったいないような気がしていた。けれども、さっきまで指に熱いほどだったたい焼きが、深山の言う通り程よい温かさにまで落ち着いてきていた。  食べごろなんだな、と澪は思った。  焦げそうな恋は涙の差し水で一旦は熱量を下げた。けれども温もりは埋火のように心の中に消えずにいた。その気持ちを、澪はとても愛おしく感じた。  伝えたいな。  澪はその思いが自分のもので間違いないことを確かめた。 「いただきます」  一口目をかじると、温もりは甘みとともに口の中にも広がった。中のあんこはまだ熱いほどだった。  口の欠けたたい焼きを澪が差し出すと、深山は「ありがとう」と言って受け取った。そして一口目を噛みながら、澪を見ていた。澪もまた、深山を見つめて微笑んだ。  深山のことが好きだ。その思いを、ずっと表に出さないようにしていた。心の奥ににしまっておいた。けど、やっぱり近くにいられるとうれしい。もっと話しがしたい。手を繋ぎたい。何物にも動じない深山の弱点になりたい。最後にしっぽを分け合ったら伝えよう。心から溢れ出る思いは悲しみや苦しみだけじゃない。  澪は深山から受け取ったたい焼きを、また一口食べた。食べながら蛇尾橋からの蛇尾川を見下ろしていた。川の水は相変わらず澄んでいる。下流にある決壊箇所はきっとまだ応急処置なんだろう。その遥か彼方には海がある。遠すぎて那須野が原からは見えない。この先がどれほどの旅路なのか澪には見当もつかない。それでも伏流をやめた川は、太陽の光を浴びてきらきらと流れ続けていた。
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