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いつの間にか左右にも直垂姿の男が二人、常雅を援護するように立っている。
そこからはあっという間だった。
気が付けば悪漢たちは縛り上げられ、常雅は服の埃を払ってイトに向き直る。
「イト殿、怖い思いをさせてしまいました。今日のところは屋敷へ戻り……」
「いいえ、わたしがわがままを申し上げたばかりに常雅殿にご迷惑をおかけすることになってしまったのです。申し訳ございませぬ」
常雅はイトの俯き震える肩に手を伸ばす。
「迷惑だなどと、そのように思ってはおりません。謝るのは私の方です」
常雅はイトが怖かったと泣くのではと思っていた。それなのに、危険な目に合わせたのはこちらの責任であるのにイトは頭を下げてくる。
常雅はイトに触れることに怯えている自分に気付いた。イトが怖いのではなく、己がイトを傷付けてしまうことが恐ろしい。
あれほど輝いて見えた市の煌めきは、すっかり色褪せ、常雅は考えこんでいた。
「ほら見ろ、街へなど行くからだ」
羽根丸ならそう言ってイトを鼻で笑うかもしれない。否、あの切れ長の目を一層釣り上げて長いお説教をするだろう。二度と神域から出るなと言われそうだ。
イトは知らずに溜め息を吐いた。
いっそ、神殿を出る前に剣術でも学ぼうか。全ては己の身を守れないひ弱さが招いていることだ。
一人で生きていけるよう強くなればいい。そうすれば誰もイトを心配せずに済む。
イトはそう思い直してまた拳を握る。ふとその気持ち悪さに仰け反りそうになった。
左手が血で真っ赤に染まっていた。
ベタつく掌を常雅が手拭いで包むようにすると、改めてイトは自分の憐れな姿を見下ろした。
胸元を掻き合せるようにして隠しても、破れた袖から白い腕が剥き出しになっている。
「お借りした服がこのようなことに……」
裁縫は得意ではないが、直せるだろうか。そんなことを考えていると、常雅が「失礼」と一言言ってイトを抱き上げた。
肩に担ぐのではなく、両手で大切なものを捧げ持つように。
付人が呼んだ牛車で二人は九条の屋敷へと戻り、イトは傷の手当を受けた。
苦い薬湯が出され、イトは震えながらそれを口に運ぶ。本当に苦いのだ。羽根丸になら文句も言えるが、常雅にこれ以上のわがままを言えるはずもない。
黙って薬湯と悪戦苦闘するイトに、常雅はようやく物思いから覚め、おかしそうに声を上げて笑った。
「苦いでしょう。だが、王先生の薬は良く効く。頑張ったご褒美にこれをどうぞ」
常雅が差し出したのは市に並んでいた串に刺さった飴だった。
「持って帰れずとも食べて帰るくらいはよろしかろう」
そう言って自分も飴をくわえる。
立派な公達である常雅が、子どものように飴をくわえる姿にイトは目を丸くして、差し出された飴を見る。
赤く透き通った飴は街の賑わいを閉じこめたようだ。
イトはその甘さに、今日の楽しさだけを記憶に刻もうとする。
夕刻、派手な牛車が一人の巫女を乗せて屋敷を訪れた。いつまでも帰ってこないイトに痺れを切らした羽根丸が送った迎えだった。
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