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羽根丸の深く澄んだ藍色の目がイトをじっとみつめる。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えるがそのどちらでもないのかもしれない。 羽根丸の手はイトの細い手首を掴んでいる。そこにあった傷口は跡形もなく消えていた。 イトの胸の中で痛いほどにうち鳴らされる鼓動。逃げ出したい気持ちに反して、背中から、足から力が抜けていくような絶望感。 初めからイトに決まっていた。カノの言葉が頭の中に繰り返し響く。 羽根丸の手がイトの頭を優しく撫でる。 「人間どもに酷い仕打ちをされたのだな。痛かったであろう」 労るような優しい声音。それなのにどこか恐ろしく感じてイトは身震いする。 「羽根丸、あなたは……誰?」 誰と聞くのは間違いかもしれない。けれど、あまりに変わってしまった姿にイトはそう尋ねずにはいられなかった。 「…………」 羽根丸は答えない。答える代わりにイトを広い胸に抱き寄せその背を撫でる。 今までにも、羽根丸がふざけてイトを抱え込んだり、子どもにするように頭を撫でることはあった。 兄が妹にするように、あるいは大人が子どもにするように。 そう思っていたのはイトだけだったのだろうか。 羽根丸の腕を振りほどいて、聞くことがある。 そう思うのに体に力が入らず、いったい何を聞こうとしていたのかも分からなくなる。 「羽根丸、……い、やだ。離して……」 イトは力の入らない腕で羽根丸の胸を押し返そうとして、僅かに覗く胸元が鱗のようなものに覆われているのを見た。 ――龍神様……。 羽根丸はもう神官の若者ではないことを悟ると、イトは泣きたいような気持ちになった。もうイトたちには神域はおろか、この社から出る自由さえない。 神とは人目に触れることさえ許されない存在だ。それを神殿に暮らした数年間でイトは痛いほど知っている。 「まだ、時間が必要か?」 緩やかに吐き出された羽根丸の言葉に、イトはすがるように頷く。 「無理強いをしたくはない。だが……」 羽根丸のほっそりと長い指がイトの顎を掬いとるように触れる。 「結果は変わらぬ」 その目に浮かんだ熱を、イトは胸の痛みとともに受け止めた。
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