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羽根丸が報せを受けたのは、月見の宴の前夜のことである。 神殿の最奥にある社は常には人の目には見えない。 その中に入ることを許されているのは僅かな神官のみ。 龍神がもう長くはない、そう聞いては羽根丸も渋々社へ赴かざるを得なかった。羽根丸は社にいる神官がどうも苦手であった。 冷ややかな眼差しは何を考えているのか読めず、神殿を厳しく取り締まりながら、自分は裏で何をしているか分からないところがある。 その上に早すぎる臨終の報せ。 人には知られていないことであるが、神とは名ばかり。龍神とて人と然程変わらぬ生き物なのだ。老いもすれば病にもかかる。そしていつか死に至る。 人と違うところと言えば、傷を癒したり、遠くを見通す力があること。そして―― 「お加減は如何でございましょうか」 御簾の奥に人の動く気配がある。 母であった人はとうに身罷った。寝台に横たわる老木のような姿は、己の成れの果て。 「…………」 声はなくとも、羽根丸には龍神の言葉が聞こえた。 ――もう良い。 何が、もう良いというのか。繰り返されるその言葉は穏やかに、静かに消えていく。 ――森に。 亡骸は森へ還される。 羽根丸の胸の内に言い様のない怒りが燻っている。神と崇め、その実飼い殺しにしているだけだ。どこへも行けず、誰とも憩えず、人目を避けて縛りつけられている。 そして己の運命もまた同じ道を辿る。 龍神の血を絶やさぬよう子を成すためだけに巫女を召し上げ、己の無聊(ぶりょう)を慰める為の道具として閉じ込める。 それでも、その運命を受け入れざるを得ないのは、この身が神などではなく化け物だからだ。 羽根丸は寝台に歩み寄ると、父の姿を見下ろした。 硬い鱗に覆われた肌。龍の鱗と言えばまだ聞こえは良いだろう。だがそれは樹皮だ。神の木が気まぐれに作り出した人と木の化け物。 いずれ自分も……。 そんな恐ろしい運命を一人で耐えてゆくことができるだろうか。 羽根丸の心に明るく暖かな陽射しを送り込む一人の娘を、酷な事だと分かっていても諦めることなどできない。 それに、神官たちが龍神の血を絶やすことを許すはずがない。 その事に安堵する自分に、羽根丸は気付かない振りをする。 社を出ると、羽根丸の足は無意識にイトを探して厨に向かう。 「イト!」 呼べば愛くるしい目を向ける少女。 「羽根丸、明日は月見の神事でしょ。お団子作らなきゃ」 ――龍神の嫁はそなただ。 神事が終わったら、自分の口から伝えよう。羽根丸はそう心の中で呟く。 背を向けた少女の黒髪を一筋掬いとり口付ける。 イトが振り返った時にはもう、羽根丸は背を向け歩いて行くところだった。 「何の用事だったんだろ……」 イトは首を傾げてその背を見送った。
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