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あれから僅か数日。神の木に血の痕を残していなくなったイトは未だ神殿には帰ってこない。 九条家の長男が事情を説明しに来たものの、羽根丸は一時たりとも落ち着いてはいられなかった。 間の悪いことに、イトがいなくなった翌々日には龍神が最後の息吹を消し、羽根丸は奥の社へと追い立てられた。 居場所が分かっている上に、傷の治療を受け丁重にもてなされているのだ。すぐに戻ってくると何度も己に言い聞かせてみるが、イトがどれほど外の世界に憧れていたかは羽根丸が一番よく知っている。一度でもその目で見てしまえば、ここへ帰って来るのが辛くなるのではないか。イトを思えば、連れ戻さぬ方が良いのかもしれない。そんな思いに胸の内が掻き乱される。 「三人の巫女のうち、どの者をお選びになられますか」 まだ社へ上がったばかりである上、選ぶ余地などないことを知っていながら、神官は何を急いでかそう問うてくる。 たとえ今ここにイトが居なくとも、答えは変わらない。もし、羽根丸が他の巫女の名を告げたところで、龍神の嫁が変わることもない。 「カノを呼んでくれ」 神官は面を伏せたまましばらく返事をしなかった。イトの名以外でそこを動くつもりはないのだろう。そこで羽根丸はやむなく言葉を付け足す。 「頼みたいことがあるのだ。嫁にと決めたわけではない」 翌日、社に上がったカノに羽根丸はイトを迎えに行くよう命じた。 「もし、どうしても帰りたくないと言ったら……」 その先は神官に聞かれてはならない。羽根丸はカノにだけ聞こえるよう囁いた。 ――イトは死んだことにせよ カノは目を見開いて羽根丸を見上げた。その目が他言無用とカノの目を見返してくる。 歳はイトより下だが、カノは大人びていて聡い。羽根丸の言葉の意味を取り違えるようなことはなかった。 ただ、羽根丸はカノの思惑には無関心だった。イトを逃がせば龍神に嫁ぐのは誰になるのか。カノの頭の中ではすぐにそのことが浮かぶ。そしてカノは龍神の嫁になどなりたくないのだ。イトを是が非でも連れ帰らねばならない。カノのそんな決意に気付く様子もない羽根丸は、もう目の前のカノなど見てはいなかった。 その時点で、羽根丸の気持ちは決まっていた。もしイトがこの社に上がってくることがあったなら、その時は二度と手放しはしない。イトの痛み、苦しみ全てをこの身に引き受けて生きよう。たとえ、イトの望みを叶えてやることができなくとも、それが神の木の意に背くことだったとしても。
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