154人が本棚に入れています
本棚に追加
玖
稚児が産まれそうなので宿直を代わって欲しいと同僚に頼まれ、常雅は渋々屋敷を出た。
大内裏に向かう間も考えるのはイトのことばかり。けがが治れば神殿へ帰り、そうそう会うこともなくなるだろう。
あれほど街の様子に眼を輝かせていた娘が、何もない神殿にこもっているなど、憐れに思えて仕方がなかった。
しかし、自分の傍に置いては今日のようなことがまた起きないとも限らない。
それこそ屋敷の中に囲ってしまえば安全だろうが、イトはそのようなことは望まないだろう。
常雅は溜め息をついて待賢門をくぐる。近衛中将である常雅は内裏の警備がその役目である為そちらへ向かうが、風に乗って届いた臭いにふと立ち止まる。
夕刻の風が西から東へと吹いたかと思えば、たちまち風向きを変え臭いは消え失せる。
それでも、常雅の感が一瞬嗅いだ臭いを無視できないことを告げている。
何かが燃える時の焦げた臭い。松明に火が入る頃合いなら、その臭いかもしれないが、まだ辺りは明るい。
常雅は再び風がその臭いを運んでくるのを待ちながらゆっくりと歩みを進める。
しかし、それ以降その臭いはどこからもせず、火の手が見えるようなこともなかった。
しばらく辺りを見回ってみたが、交代の時間が迫っていたため、常雅は諦めて内裏へ向かった。
火の手が上がったのはそれから随分時間が経った後のことだった。
気がついた時には常雅のいる清涼殿は炎に包まれていた。
見回りを終えて戻って来た時には、既に広範囲に火の手が回っていた。顔に吹き寄せる熱風とは逆に常雅の背に冷たいものが流れ落ちる。
自分は何故もっとあの時広範囲に調べなかったのか。
全て常雅の責任のように思われた。
気付くことができていたはずなのに。どれほど後悔しても、この燃え盛る炎を消す術を常雅は持っていない。
火の勢いは激しく、常雅は主上の夜御殿へと近付くことができない。
まるで一瞬にして内裏ごと炎の中へ放り込まれたように、どこを見回してみても炎の壁が立ちはだかる。
「誰かいるか!」
常雅の呼び掛けに答える声はない。人影も見えない。声を上げたために大きく煙を吸い込み咳き込む。
主上は無事なのか、それだけでも確認しなければと常雅は炎の中へ飛び込もうとした。
誰かが常雅の腕を掴んで止めたようだった。
煙と炎に目も鼻も喉の奥も全てがひりつき、全身が焼けるように熱い。
轟々と燃え上がる炎の中で、焼け落ちる御帳台を見たのを最後に常雅の意識は途絶えた。
最初のコメントを投稿しよう!