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「春尚殿!」 衣擦れの音をさせながら廊下を小走りにかけてきたイトに、春尚は先ずは怪我の具合を尋ねる。 イトは、もう傷跡すら残っていない手首を隠すように反対の手で押さえ、もう平気だと答えた。 春尚はそれは良かったと頷きながらも、イトの表情に翳りがあるのを見てとった。 「神殿で何かあったのですか」 「…………」 何かと問われて一言で返す言葉が見つからず、イトは考えあぐねた。龍神が交代したことを神殿の外へ漏らす訳にはいかず、ましてや自分が龍神の嫁になったなどと言えるはずもない。 「少したてこんでおりました」 そう言うのが精一杯で、あとは笑って誤魔化すと、逆に春尚に尋ねる。 「春尚殿は何かあったのですか? こんな時間に神殿までおいでくださるなんて」 「イト殿、実は常雅がこちらに来ていないかと思い訪ねてみたのですが」 いつ神官に追い出されるかも分からない。春尚は声をひそめて、イトの丸い目を見ると早々にそう切り出した。 「常雅殿はお見えになっていませんが、何かあったのですか」 「昨夜宿直に出たあと、内裏で火事がありました。その後常雅の姿が見えぬのです。もしやイト殿に会いにこちらに来ているのではと思い……」 「それは心配ですね……」 イトは常雅にもう一目会ってお礼がしたかった。そしてこれを逃せば二度と常雅に会うことはできないかもしれないと思えば尚のこと、神殿の中でじっとしているなどできそうになかった。 しばらく考えこんでいたイトは、顔を上げると春尚を見上げて両の拳を握る。 「私も常雅殿をお探しいたします」 「いや、そのような。ただこちらに常雅が訪ねてくることがあれば報せていただければ」 「いいえ! お手伝いさせてください」 すがるような目で見つめられては春尚もそれ以上言えず頷くしかない。願ったり叶ったりでもある。 「では羽根丸……じゃなくて、龍神様にお許しをいただいてまいりますね。春尚殿、こちらでしばしお待ちくださいませ」 イトは来た時と同じようにまた小走りで駆け出していた。 その兎のようなすばしっこさに、春尚は苦笑しながらその背を見送った。
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