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再び抱きしめようとする羽根丸の胸を押し返し、でも、とイトは言葉を繋ぐ。 「今はまだお社に上がることはできないよ。わたしはわたしの為に生きていたい。今龍神様のお嫁になったら、わたしはわたしを殺しちゃうような気がする。それはきっと羽根丸にとっても駄目なことなんだよ」 イトは懸命に思いを言葉にして伝えようとしているのだが、羽根丸はそんなイトを見てふっと笑みをこぼした。強ばっていた羽根丸の肩から力が抜け、イトはその腕から解放される。 「そうだな。イトは野の鳥と同じだ。捕まえて籠に入れれば死んでしまう」 「わたしを離してくれるの?」 「ちゃんと巣に戻ってくるようにしつけなければな」 羽根丸の腕がいつものように笑いながらイトの首に回される。 じゃれ合うようなその仕草に、いつもの羽根丸に戻ったのだとイトは安堵する。 「そろそろ仕事をせねば、神官どもが待ち構えておるな」 そう言って立ち上がった羽根丸の向こうに、数々の書簡を捧げ持った神官が立っている。 「神様にも仕事があるの?」 「逃げ出したくなるほどな」 ため息混じりにそう答える羽根丸に、イトは大きく目を見開く。 「神様も大変だね」 ふと食事の膳に目を落とせば、羽根丸はほとんど手を付けていない。 後で何か作って差し入れようとイトも立ち上がる。 イトが社を出て石段に足をかけても、今度は誰も邪魔する者はいなかった。 その日の夕刻、春尚の訪いを告げる若い神官の声に、イトはぱっと顔を輝かせた。 しかし、常雅は一緒には来ておらず、それどころか行方が分からないという。 静まり返る夜の神殿にイトの足音だけがパタパタと響く。 まだ本当の意味で、イトは自分の置かれた立場を理解してはいなかった。 イトの一挙手一投足をじっと見ている目があること。そして羽根丸がイトの翼を折らぬようにどれほど心を砕いているかを。
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