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拾
イトが龍神の社へ続く石段を登ると、そこにはあの水晶の珠を手にした神官が立っていた。
長く神殿に住んでいるというのに、イトがその神官を見たのはこれが二度目だった。
歳は四十を過ぎているだろうか。目も口もうっすらと開いただけの表情の読めない顔をしている。
イトは思わず身構え、後ずさった。
「まだふらふらと歩き回っているのですか」
突き刺すような鋭い声で問われ、やはりこの神官はイトを見下しているのだとはっきり悟る。
「羽根丸に今まで通りで良いと」
「もう羽根丸ではありません。龍神様とお呼びし、常にこの社の中でお仕えするのです。みだりに歩き回ってはなりません」
イトは唇を噛み、拳を握りしめて言い返したいのを堪えた。
神官に逆らってはならない。繰り返し言い含められてきたことだ。どんなに納得のいかないことであっても、この神殿ではイトより神官の方が上位であり、歯向かえば厳しい罰が待っている。
羽根丸と過ごすことの多かったイトは、上位の神官と関わることがほとんどなかった為に、これまでは問題なく過ごせてこれた。
羽根丸はイトを叱ることはあっても、折檻するようなことはない。
「龍神の花嫁に選ばれたからといって、お前の立場が変わることはない」
神官は一歩足を進めイトに近寄ると、ゾクリとするような低い声でそう言い、手にしていた扇で社の一角を指し示す。
「あそこでおとなしく龍神様のお渡りを待ちなさい」
嫌です、と喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込み、イトは頭を下げ神官に道を譲る。
神官が歩み去るのを待って、イトは羽根丸の元へと駆け出した。
バタンと派手な音を立てて社の戸が開く音に、羽根丸は目を覚ました。
目の前に広げられた書簡にはこの先の作物の出来や天候を占って欲しいという内容が書かれている。
羽根丸は夢の中で近い将来起こるであろう出来事を見ていた。
依頼された近隣の里の作物のことなどではなく、夢の中に現れたのはこの神殿だった。
数十人の兵が押し寄せ、神殿は踏み荒らされ、神官は逃げ惑う。
乾いた木造の建物はみるみる炎に包まれ、飛んでくる火矢に何人もの神官が倒れた。
バチバチと爆ぜる炎。黒煙が渦巻き、唸り声を上げて柱が崩れ落ちる。
強い風に煽られて炎はあっという間に神殿全体を包み込む。
羽根丸はイトの姿を探したが、どこにも見当たらない。
やっと見つけたと思った瞬間、目の前で崩れ落ちた柱がイトの体を叩きつけ、小さなその体は抗う間も無く息絶える。
夢から覚めた瞬間、羽根丸の胸の鱗がまた酷い痛みを伴ってその体を侵食し始めた。
息もできないほど痛みに、羽根丸は呻き声を噛み殺しながら誰にも気付かれないよう痛みをやり過ごす。
人の傷や病は癒せても、己のこの痛みは少しも癒すことができない。
そして繰り返し羽根丸を絶望の底に突き落とすこの夢もまた、どうすることもできずにいる。
「羽根丸!」
鈴を振ったようなイトの声が聞こえて、羽根丸は慌てて体を起こした。
まだ痛みのせいで常の声が出せずに黙っていると、イトは羽根丸の前に膝を着いて見上げてくる。
怒ったような顔がすぐ驚いた顔になり、じっと羽根丸の顔色を窺ったかと思えば、今度は心配気な表情にかわる。
言葉を発せずともその表情だけで何を考えているのかお見通しだった。イトの分かりやすさは神通力を使うまでもない。
何か言いたげなのに、羽根丸を気遣って言うのを躊躇っている。
羽根丸はそれが可笑しくまた愛おしく、さっきの夢をどんなことをしてでも回避したいと強く願う。
「どうした? 言いたいことがあるのだろう?」
「……、羽根丸どこか苦しいんじゃ」
「どこも苦しくなどない。心配要らぬよ」
そう言って笑って見せれば、イトは安心したようにほっと息を吐いた。
そしてまた、羽根丸の胸を抉るような言葉をなんの悪気もなく言ってのけるのだ。
「街に行きたい。常雅様を探しに行ってくる」
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