154人が本棚に入れています
本棚に追加
弍
「神事の前に狩りをするなど……」
常雅は呆れた顔で、隣の馬を見やった。牛車ではなく、馬で行こうと言う兄の言葉に素直に従ったものの、やはり精進潔斎せねばと、真面目な常雅は思う。
「良いではないか。酒の肴に雉の一羽も無くばやっておれん」
神殿嫌いの兄らしい言葉と共に駆け出した馬を追って、仕方なく常雅も馬の腹を蹴って森を目指した。
元より月見より狩りが目的だったのではないかと思えるほど、兄 春尚の背負った矢の数は多い。
森の手前に聳える大銀杏を目指して馬を駆る。草原を吹き渡る風の心地良さに、常雅もまた神事のことなどいつしか忘れて馬を走らせていた。
木漏れ日の差す森の中。
春尚の放つ矢は既に二羽の獲物を仕留めていた。
常雅は初めて入る森の中をただぶらぶらと馬を引いて歩いていた。
小鳥のさえずり、葉擦れの音、馬と自分の足が落ち葉を踏みしだく音。
何も、いたって何もおかしなところはない。なれど、耳の後ろに刺すような視線を感じる。
常雅は注意深く、大銀杏のある方へ足を向け、自分を追ってくる者たちの数を数えた。
日が傾き始めている。
風がひやりと頬を撫でたのを合図に、馬の背に跨りたずなを引いた。
その瞬間、飛んできた矢が常雅の袖を掠めて木の幹に突き刺さる。矢羽根は兄のものではない。
常雅は腰の剣を抜いた。片手でたずなを取り、馬を走らせる。
――逃がさぬ。
逃げるかに見せかけて、敵の背後へ周り込むように馬を操る。
しかし、敵は木の上から矢を射かけるのみで姿を見せない。
足場の悪い森の奥へこれ以上踏み込めば帰り道を見失う。
常雅はやむなく追跡を諦めた。しばらくして春尚に合流すると、春尚は弓矢を常雅に押し付けてきた。
「持っておけ。木の上の敵に剣では適うまい」
兄弟でありながら、狙われるのは常雅一人であることを春尚は知っている。
春尚の母は平民で、常雅の母は右大臣の娘。将来を約束されたのは出自の卑しい兄ではなく、後ろ盾の強い弟の方だ。
そして政敵から煙たがられるのもまた弟の方である。
「急ぎましょう。日が暮れる」
常雅は弓矢を受け取らず、剣を鞘に戻して馬の鼻先を返す。
「仕方ないのう。お供つかまつる」
冗談めかして春尚は常雅の後ろに続いた。いつでも矢は放てる。何かあれば、自分が弟の盾になろう。春尚は少し前からそう決めていた。
大銀杏が見えてきた時、それまでとは違う生暖かい風が吹いた。
二人は馬を止め、人の気配を感じて身構えた。
大銀杏の枝から何かがぽたりと地面に落ちたのを見て、春尚は矢をつがえた。
最初のコメントを投稿しよう!