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「神事の前に狩りをするなど……」 常雅(ときまさ)は呆れた顔で、隣の馬を見やった。牛車ではなく、馬で行こうと言う兄の言葉に素直に従ったものの、やはり精進潔斎せねばと、真面目な常雅は思う。 「良いではないか。酒の肴に(きじ)の一羽も無くばやっておれん」 神殿嫌いの兄らしい言葉と共に駆け出した馬を追って、仕方なく常雅も馬の腹を蹴って森を目指した。 元より月見より狩りが目的だったのではないかと思えるほど、兄 春尚(はるなお)の背負った矢の数は多い。 森の手前に聳える大銀杏を目指して馬を駆る。草原を吹き渡る風の心地良さに、常雅もまた神事のことなどいつしか忘れて馬を走らせていた。 木漏れ日の差す森の中。 春尚の放つ矢は既に二羽の獲物を仕留めていた。 常雅(ときまさ)は初めて入る森の中をただぶらぶらと馬を引いて歩いていた。 小鳥のさえずり、葉擦れの音、馬と自分の足が落ち葉を踏みしだく音。 何も、いたって何もおかしなところはない。なれど、耳の後ろに刺すような視線を感じる。 常雅は注意深く、大銀杏のある方へ足を向け、自分を追ってくる者たちの数を数えた。 日が傾き始めている。 風がひやりと頬を撫でたのを合図に、馬の背に跨りたずなを引いた。 その瞬間、飛んできた矢が常雅の袖を掠めて木の幹に突き刺さる。矢羽根は兄のものではない。 常雅は腰の剣を抜いた。片手でたずなを取り、馬を走らせる。 ――逃がさぬ。 逃げるかに見せかけて、敵の背後へ周り込むように馬を操る。 しかし、敵は木の上から矢を射かけるのみで姿を見せない。 足場の悪い森の奥へこれ以上踏み込めば帰り道を見失う。 常雅はやむなく追跡を諦めた。しばらくして春尚に合流すると、春尚は弓矢を常雅に押し付けてきた。 「持っておけ。木の上の敵に剣では適うまい」 兄弟でありながら、狙われるのは常雅一人であることを春尚は知っている。 春尚の母は平民で、常雅の母は右大臣の娘。将来を約束されたのは出自の卑しい兄ではなく、後ろ盾の強い弟の方だ。 そして政敵から煙たがられるのもまた弟の方である。 「急ぎましょう。日が暮れる」 常雅は弓矢を受け取らず、剣を鞘に戻して馬の鼻先を返す。 「仕方ないのう。お供つかまつる」 冗談めかして春尚は常雅の後ろに続いた。いつでも矢は放てる。何かあれば、自分が弟の盾になろう。春尚は少し前からそう決めていた。 大銀杏が見えてきた時、それまでとは違う生暖かい風が吹いた。 二人は馬を止め、人の気配を感じて身構えた。 大銀杏の枝から何かがぽたりと地面に落ちたのを見て、春尚は矢をつがえた。
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