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「イト殿……。先にお聞かせくださればこのような無茶なことせずに済んだものを……」
春尚はつい恨みがましくイトを横目に見てぼやいた。
「まだ正式にそうと決まったわけではございませぬ。それに神の木がわたしは誰のためにも生きてはならぬと教えてくださったのです。ですから良いのです」
どこからくる自信なのか、きっぱりと言い切るイトに春尚はため息を堪えられない。
今頃どこでどうしているのか、不憫な弟を思うとさらにため息が溢れた。
「春尚殿、参りましょう」
そんな春尚の心中になど気付いていないイトは、龍神を引き連れて颯爽と歩き出す。
「イト殿、徒歩では都に着く前に日が暮れます。私の馬で参りましょう」
春尚がイトを馬上に上げようと手を伸ばした瞬間、扇がパシリと春尚の手を打った。
龍神がその目に青い炎を浮かべて春尚を睨んでいる。
「私は急ぎますゆえ、どうぞお二人は後から……」
春尚は打たれた手を擦りながらやけ気味に答える。さっさと馬に跨り一刻も早くその場を去りたいとさえ願っていた。
そこにどこから現れたのか、一頭の白馬が鬣を揺らせて鼻先でイトをつつく。
それはまるでイトに自分に乗れと言っているようだった。
「これは、イト殿の馬ですか」
「い、いえ」
イトも戸惑いがちにしきりに背中を押してくる馬を見ている。
「馬には乗れますか?」
春尚の問いにイトは首を左右に振る。どうしたものか。春尚は今一度イトの方に向き直り、真っ直ぐにその目を見た。
「イト殿。常雅を案じてくださるお気持ちは大変ありがたく思うております。しかし、この先危険なこともあるやも知れませぬ。龍神様の花嫁となられる御方をむやみにお連れすること、この春尚には荷が勝ちまする。
それでも共に行ってくださるというのなら、どうか私の馬に共に」
もし、慣れぬ馬に乗って落馬しようものなら、離れていては助けることもできない。春尚は共に行くならイト一人守れるくらいの力はあると自負している。しかし、自分に怒りを向けてくる神を連れてとなれば話は別である。
「龍神様、私は弟を探さねばなりません。お力をお貸しいただけるのなら、今後神殿への忠誠を誓います。しかし、邪魔されると仰られるのなら、イト殿は連れて行けませぬ。御二方ともここでお引取りを」
龍神は黙って春尚を見下ろしていたが、イトに睨まれてふいと目を逸らすと、ふっとその姿を消した。後には青い蝶が舞っていた。
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