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羽根丸は神の木の下で、踏み潰された団子を拾い上げていた。 幹を染める赤黒いものが、信じたくはないが誰のものであるのか、神の木に問うまでもない。 ザワザワと森が騒ぐ。 月明かりは冴え冴えと辺りを照らしているが、肝心の少女の姿を見せてはくれない。 羽根丸の下ろした長い髪が風に靡いて舞う。怒りに荒ぶる気持ちを押し鎮め、目を閉じて少女の行方を探る。 微かな血の香り。その香に誘われるように、森の奥から狼の遠吠えが聞こえてくる。 「イト……、神域を出るな」 羽根丸の声は(しゅ)となってイトを縛る。 神の木が羽根丸を宥めるように葉を揺らす。人の耳には聞こえぬ言葉で、神の木は囁く。死にはしない。放っておけと。 「あれは私のものだ。放って置けるものか」 しかし、次の瞬間、僅かに繋いでいた少女との繋がりがぷつりと途切れた。龍神の力の及ぶ域を出た証だった。 最早、羽根丸にイトの居場所を突き止める術はない。ここから出ることの叶わぬ身では。 春尚(はるなお)は遠ざかる影を呆気にとられて見ていた。 血相を変えて馬に飛び乗った常雅(ときまさ)の姿は、常の冷静な弟からは想像もつかないものだった。 「あいつ、神事のことを完全に忘れているな」 神殿とは真逆の方向へ走り去る馬。もともと矢を射たのは春尚である。狙って放ったわけではなかったが、少女の細い腕を傷付けたことには少なからず責任を感じている。 しかし、常雅が神事を放り出して行ってしまった以上、春尚は神殿へ赴かねばならない。怪我を負わせたのは神殿の巫女のようであるし、預かった札は春尚の懐にある。 東の空から昇りゆく月を見上げ、春尚は嘆息した。 「往くか……」 馬の首を撫で、(あぶみ)につま先をかけ鞍に(またが)った。 一度森を振り返る。今日はもう追って来るまい。暗い森の奥に潜む敵。その後ろにあるものは何れか。 矢筒に放り込んだ敵の矢を、帰ったら調べることにしよう。そんな物から足がつくような相手ではないが、僅かでも証拠となるものが必要だ。 その夜、雉を神殿に持ち込んだ春尚は酒の肴どころか、酒一滴も飲むことはできなかった。一晩中写本をさせられたのだ。 「これだから、神殿は嫌いなのだ」 ボヤく春尚を睨みつける神官の射殺すような眼差しに、武術にかけては国で一番とうたわれる春尚であっても、この神官にだけは適わないことを肌身で感じている。 翌朝、目の下を黒くして都に戻ると、同じく酷い顔色の弟が迎えに出てきた。 「娘はどうなった?」 「命は助かりました。傷も問題なく……」 歯切れの悪い常雅に、春尚は何かあるのかと問おうとしたその時、廊下の向こうからズンズンと足音を響かせてやってくる者がいる。
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