エピローグ 愛

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エピローグ 愛

 藍はひしゃくで「北島」とある墓石に水をかけた。  年齢は四十前半といったところだろうか。顔には優しい笑みを浮かべている。  血管の浮き出た手がひしゃくを動かす。  彼女の横には浩二が立っており、墓石に水をかける彼女を見守っていた。  墓石に書かれた「誠子」という文字を見て、浩二は寂しそうな表情を浮かべた。 「まさか、私より先に逝ってしまうとはなあ……」  藍の母は癌だった。だが愛する夫が帰ってきてからの彼女は幸せな時間を送った。 「お父さんが帰ってきたおかげで、お母さん、最後まで笑顔だったよ」  藍は浩二に向かってそう言った。 「あんな嬉しそうに笑うお母さん、何十年も見てなかったよ」  浩二の目は潤んでいた。  藍は腕時計を見た。 「私、そろそろ帰らなくちゃ。仁志さんが美海(みうみ)に困らされてると思うから」  美海は去年、二人の間に生まれた娘だ。長男の海翔(かいと)とは四歳差になる。  海翔は落ち着いた少年へと育っていたが、美海はすぐに泣いてしまう子で泣き止ませるのがなかなかに大変だった。  どちらにしても、可愛いことに違いはないのだが。 「私も孫の顔が拝めるとは思ってもいなかったよ。それじゃあ、私はもう少し残ろうと思うから、また」  藍は手を振って墓地を出た。  浩二は墓の前にひざまずいて、墓に話し始めた。  僕は墓石の上から流れ、地面へと吸収されていった。  *****  思い返せば、僕はずいぶんと長い間、藍を見守ってきた。  涙として彼女に出会った僕は、時に蒸気になったり、またある時は水たまりになった。汗や血にもなれば、川や雨になったりもした。土に染みこみ、空に浮かびながらも彼女を見守っていた。    どんなときも、どんなところでも彼女は人を愛し、人に愛されていた。  彼女は「愛」でいっぱいの人生を送っている。  人間は孤独を感じる生き物だ。  自分の考えや気持ちを理解できる存在が自分しかないとわかると寂しくなる、そんな生き物だ。  だが孤独から彼らを解放してくれる力、それこそが愛なのである。  人々はくっついて、離れを繰り返す。しかし遠くに離れてしまっても、心をくっつけてくれるのが愛なのである。  僕たち水は、ありとあらゆる時に人々を見守っている。  彼らはそんなとても近い存在に気付かずに孤独を感じているが、実は僕たちはいつでも彼らのすぐそばにいる。  僕は今、藍という一人の人間を見守ることにしている。だが彼女は人生を終えるまで僕の存在に気付かないだろう。  でもこれだけは知っていて欲しい。本人の目には届かなくとも、その人のことを想っているもの、応援しているものが世の中には必ず存在しているということ。  僕は藍が好きだ。これも一つの愛なのだろう。彼女の輝きが周りを照らしていくのを見るのがたまらなく幸せだ。  だから僕は彼女を見守る。これからも彼女の人生が終わるまで、僕は彼女のそばにいるだろう。  涙いっぱいの、愛を抱えて。
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