家、グラスの中

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家、グラスの中

 僕たち水は世界中を飛び回っている。  川や海になったり、雲になって雨として降り注いだり、あるいは人間が作った水道管や下水管、それに浄水場を流れたりもしている。  僕たちは形を変えながら世界中を駆け巡っている。  僕もしばらくの間、山に染みこんだり川を泳いだりしていた。  そしてその日、僕は再び彼女と出会うことになったのだった。  *****  部屋の中には四角い木のテーブルがあり、向かい合うようにして二人が座っていた。  一方は大きめのランドセルを抱え、暗い顔をした男の子。  もう一方は高校の制服を着た女子高生。その女子高生が藍であることは以前の面影からすぐにわかった。  そこに藍の母親がオレンジジュースを持って現れた。 「お母さんありがとう」  藍の母はジュースを少年の前に置くと、横にあった椅子に座った。  少年はジュースを一口飲むと俯いた。 「世成(せな)君はどうしてここまで来たの?」  世成と呼ばれた少年は手で目をこすった。 「僕はボクシングやりたくないのに、お母さんがやれって言うんだ」 「ボクシングやってるの? 習い事で?」  藍が優しい声でそう聞くと、世成は鼻をすすってから問いかけに応えた。 「僕はやりたくない。痛いし、怖いし」  藍が頷く。 「そうなの……それで、ボクシングをやりたくないから家出したの?」 「そう。今日もボクシングがあるからその前に逃げたんだ」  世成はまたオレンジジュースを口に含んだ。  藍はその様子を見て、うーんと考えていたがふと何かを思い出したように顔を上げた。 「私が小さい頃にね、私のことを守ってくれた人がいたの……」  彼女は首にかけてあった緑色のお守りを優しく手で包んだ。 「その守ってくれた人っていうのは私のお父さんなんだけど、私を救う代わりに死んでしまったの。そのおかげで今、私は生きているのよ」  世成は驚きの表情で彼女を見た。 「たぶん、あなたのお母さんも世成君に大切な人を失ってもらいたくなくて、習わせてるんじゃないかな。ボクシングをやって強くなって、それで大切な人を守ってあげられる人になって欲しいのよ」  藍は優しく、それでいてどこかに切なさが見える笑顔を浮かべた。 「だからあなたのために習って欲しいと思ってるんだと思う」  世成は口を閉じて下を向いた。 「でも、もし世成君が本当にボクシングをやりたくないのであれば、それははっきりとお母さんに言うべきだと思う。なんでやりたくないのかをしっかりと伝えればわかってもらえるかもしれないし。それでまた辛くなったら私のところに来ても良いから」  世成はしばらくの間、黙っていた。彼女も静かに彼を見つめていた。  時計の秒針が一周ほど回ったところで彼は言った。 「ボクシング続けるよ」  彼は顔を上げて藍の目をまっすぐ見た。 「僕、ボクシングを続けて強くなって、それで藍姉ちゃんを守れるようになる!」  彼の顔は真剣だった。藍は彼に微笑みかけた。  世成は白い歯を出してにこやかな表情を浮かべると、グラスを手にし、残りのオレンジジュースを飲み干した。  僕は彼の体の中へと流れ込んでいった。  *****  この時僕は、彼女の中に何か煌めくものを感じ取った。  それは数え切れない程存在する人間の中でも、一際目立つ輝きだった。  僕はその美しい光を久しぶりに見た気がした。  こうして僕は彼女のことを見守ることに決意した。
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