嗤う男

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 嗤うのだそうだ。  本人にはまったく自覚がないが、どうも打席に入ったバッターと目が合うと、笑うらしい。しかも、 「死ぬほどハラタツよなー」 「ほんまバリむかつくわ、あれ」  というのは、今では対戦相手になったリョウタや、中学時代から対戦しているユキちゃんの談だ。「え、ほんまに笑ろうてる?」と聞き返すと、 「なに言ってんだよ、紅白戦で俺にもやるじゃん。クッッソとか思ってんかんな」  と、チームメイトのまっちゃんには呆れられた。「ご、ごめんなさい…」と思わず謝ってしまう。 「…打者んときもそうだろ。すっげー、ヤァな笑顔で、てめェこの野郎! とか思うぞ、フツーに」  と圭一郎に言われたときは、あまりの事に絶句してしまった。ケントを振り返ったら強く頷いていたので、どうやら事実らしい。  同期会から帰ってきてその話をすると、みんな「なにを今更」という反応だった。 「まあ、こんちくしょう! と思うくらいのときは調子が良いんだよな」 「ですね、むっちゃ感じ悪いときほどいい球が来ますねェ」  とは、顔も球も見る捕手の聖さんとミカワの証言だ。 「てかさ、野球やってる時のほたは、基本、ヤな奴だよね」  と岸本にあっけらかんと笑われて、正直、死球を受けたぐらいの衝撃だった。  つまり、野球をやっているときの俺は、ものすごく感じが悪くて、ムカつくくらい厭な奴だ、ということですか? と、ほとんど震える声で訊ねると、 「あ、や、まあ、野球の時だけだから!」 「普段は大丈夫ですよ!! たぶん! きっと!」  それはフォローなんだろうか、と眉尻を下げていると、 「でも野球やってないときのほたって… もうちょっとダメですよね?」 「ああ、ダメだなぁ。ぜんぜんダメじゃないかな」 「そもそも野球以外に取り柄とか、あったっけか?」 「うーん、ないんじゃない? 映す価値なし的なあれ」  1ミリの擁護もされなかった。もう息も絶え絶えである。野球やってる時はむっちゃヤな奴で、野球やってないときはダメって、俺に存在意義ってあるんだろうか… と嘆いていたら、 「…そりゃ、ガリレオに訊けや」  最後は祐輔にそう丸投げされたのだった。  ガリレオ、というのは身内での『彼』の呼び名で、物理学者が探偵役の推理小説シリーズ、が原作のドラマ由来だ。  各世代から支持を集める俳優が主演を務め、あんなにイケメンの物理学者は現実にはいない、と揶揄されていたものだが、「ああ… 現実にもいるんだ、ガリレオ先生」とケントが評して定着した。その俳優と彼が特に似ているわけではないのだが。  夜半、目が覚めると隣に彼が居ない。  ということは… と視線を動かすと、半裸のままワークチェアに立て膝で座り、PCと向かい合う彼が居た。この、職場近くに借りている1LDKの部屋はほんとんど寝に帰るだけで、いちおう置いてあるデスクもほぼ彼しか使わない。そしていま、彼はひどく真剣な貌をしていた。  たまに、いや、ちょいちょいあることだが、一緒に居るときでも彼は突然「飛ぶ」ことがある。猛然とPCで何かを調べたり、ノートやプリント用紙に何か(文字やら数式やらグラフやら)を書き始めたり。なにかのスイッチが入るのだろう、そういうとき、こちらの話はほとんど耳に入らないようで、まま取り残される。  今もきっと、「なにか」あったのだろう。  声を掛けてもおそらく届かないので、とりあえず『ガリレオ先生』をぼんやりと眺めた。青白いディスプレイの光に照らされた横顔は滑らかに削り出された彫刻のようで、そういえば綺麗なひとだったな、と改めて思い出す。そして、この瞬間の彼は、怖いほどに真摯で、触れたら斬れそうなほど。  まるで、打席に立つ”彼等”とおなじ深度の、   ああ、そうか…   打席に入る打者の顔を見るのは、すきだった。  もちろん、彼は打席には入らないので、その時の表情を見ることはない。ないが、すこし想像する。彼はどれだけ研ぎ澄まされた顔でバッターボックスに足を踏み入れるだろう?  どんな… かおで、 「どうした?」  出し抜けに問われて、危うく声が出るところだった。彼の集中力は半端ないので、こちらには気付いていないと思っていたのだが。 「うん」  答えにならない頷きをひとつ。彼がこちらを振り向く。視線を合わせてから微かに笑うと、彼は立ち上がって近付いて来た。  手を伸ばして迎え入れると、目を合わせたまま唇をねだる。軽い音を立てて始まったキスは、長く短く、柔らかく強く。彼の長い睫毛が触れてくすぐったい。彼の瞳も笑っている。もう少し欲しくて、彼に縋り付いたところで、 「どうした」  もう一度訊かれる。うん… と軽く肯って、彼に身体を預けたまま、件の笑顔の話をする。 「自分じゃ気付いとらんかったから… そうだ、楓、写真撮ってへん? 俺が笑ろうてるとこ」  彼の趣味は写真だ。玄人はだしで、特に自分の写真なら、そのへんのスポーツ紙のカメラマンよりよほどいい写真を撮る。が、 「ない」  にべもない。一を訊くと十返ってくる彼にしては珍しく、はて、と思っていると、妙に深いため息がふってきた。思わず覗き込めば、彼が真顔になっている。冴え冴えと、というより、ぞくりとするような強い視線に、僅かに身を引いた。いったい何事だ? 「あいつらに言ってみろ、笑わないように努力するとかなんとか。ぜったい止めるぞ」  意図が飲み込めなくて、え、と聞き返すものの、彼は答えない。代わりに、キスを強奪された。息が出来ないほど強く、深く、身体の芯からとろけるような。たまらずに彼にしがみつくと、強引に押し倒された。  こちらを見下ろす彼の顔はきりりと尖って、息を呑むほどの美しさだ。 「あー、腹が立つのはこっちだっつーの。思い出させやがって」  野球やってる奴は全員、敵も同然だと言う彼に、ああ、と気付いて、なんだか可笑しくなる。   あの瞬間の快感は、鮮やかに   でも   それはまったく、違うもので、 「おあいこやないかなァ、それ」  はぁ? と今度はこちらの言葉に眉を顰めた彼に、嗤って。ふたり、キスの続きを始めた。
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