深緑の森

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深緑の森

 白い娘の昔話の舞台となっている森だ。まだ雪の季節ではないからその森は白くは染まっていなかった。  森の奥をうかがわせないと言い張るような隙のない木立は、この世とあの世とを隔てる壁にも見えた。  ヨハンはその森に立ち入ったことは一度もなかった。  その森は足を踏み入れたら二度と出てこられなくなるほどの人外の地ではなかったけれど、そこに立ち入って生計を立てる猟師でも森の全体図は描けないという。それほど深く大きな森なのだ。  村に伝わる別の古い話では、森のどこかに大きな湖と小島があり、小島には暴君と恐れられた貴族が近隣の村からさらってきた若い男たちに建てさせた屋敷があるという。 「おとぎ話そのものって森だな」  ヨハンは素直な感想を口にした。ため息を一つ付けて。 「ヨハン。あなただってロマンティストなのね。でも、私には、あの森の木立は、列を作っている人間の姿にも見えるわ。白い娘がさらっていった男たちは森の木になってしまったのかしらね?」  今度はセンチメンタルじゃないかとヨハンは心の中で苦笑した。 「どうしてそんな不安そうな物言いをするんだい? 愛しのルイーゼ。今の君に相応しい顔をしておくれ。僕たちの未来は常に明るいのだから。雪が完全に溶けた頃の季節、僕らは結婚するのだよね?」  念を押すように、ヨハンは結婚という部分を強く言った。 「そうよ。ああ、でも、不安なの。期待は失望という挑戦者を招くのよ。ねえ? 私たちの結婚は早められないのかしら?」 「無理を言うな。これから冬を一つ越す準備をしなければならないんだぞ」  ヨハンは遠くに広がる深緑の森を再び眺めて舌打ちした。  白い娘の昔話、いやおとぎ話など、一体どうしてこの場に出てきたのだろう。 「ルイーゼ。この村では何事も急には行えない。準備の期間が必要なんだ」 「ええ。わかってるわ」 「ルイーゼ? でも、冬に白い娘が現れるなんて昔話を、いや、おとぎ話を、君はまさか信じてはいないよね? だって、僕らが生まれてから二〇年くらいの間、冬に村から誰かがいなくなったなんて話は一度も聞いたことがないんだぞ」 「そうね」  ルイーゼは目を伏せて言った。 「それ以前にはあったから、白い娘の昔話は村に伝わっているのよ。おとぎ話じゃない。あった事として伝わるのよ、今も昔も……」 「どこの家の誰がいなくなったんだよ。それは聞いたことないだろう。じゃあ、白い娘は僕らが生きている間に現れると思うかい?」  ヨハンの問いにルイーゼは首を横に振った。 「それはないと思いたい」  ルイーゼはくるりと背を向けてその場を去った。  ヨハンは愛しき人の背中を黙って見送った。
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