第1話 クリスマス・イブ

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第1話 クリスマス・イブ

9f368b76-0258-445b-8fd6-cdc3550ec7c6 12月24日の19時半、丸ビルにある『ISOLA SMERALDA(イゾラ スメラルダ)』で、スパークリングワインを飲みながら、明日香はひとりで座っている。 「お待たせしました」 スタッフが『フィットチーネ 生ウニのクリームソース レモンを効かせた”アマルフィ風』を目の前に置いた。 ウニの香りが食欲をそそる。アマルフィ風って何なんだろう、と思いながらウニのクリームソースに惹かれてオーダーした。 「美味しそう!」思わず出た言葉にスタッフが微笑んだ。 「誕生日おめでとう」パスタを前に、明日香はそっと呟いた。 キリスト様に言ったのでは無い。自分に対して言ったのだ。そう、今日は明日香の誕生日だった。26歳になった。 「はい?」店のスタッフが、何かを言われたかと思って、声を掛けてきた。 「いえ、何でも無いんです」 昔からクリスマスが嫌いだった。 誕生日がクリスマス・イブだと言うと、みんな「()いじゃない」と言ってくれるが、良いことなんて何も無い。 小学生の頃、だれもが誕生日会よりもクリスマスパーティに興味があり、明日香の誕生日は忘れられていた。 キリスト様と張り合っても勝てない(つまり、明日香の誕生日会よりはクリスマスパーティにみんなは集まる)ので、いつしか誕生日会は止めた。 それからは、良くて『メリークリスマス!』と言った後で、覚えてくれていた友達が『あっ、明日香もおめでとう』と言ってくれることもあった。 まあ、順番からすれば、自分がキリスト様の後に来るのは当然だとは思うが、それでも自分の人生、なにかの付録なのだろうか、とも思い込むには十分な年齢と経験だった。 中学生になってからは、自分からは誕生日をあまり言わなくなった。そして、クリスマス・イブに友達と集まった時に、心の中で自分に対して『お誕生日おめでとう』と呟いた。 それは高校生、大学生の時も続いた。 大学を卒業して就職したら、もともと人付き合いの得意では無い明日香は、友達とクリスマス・イブに集まることも無くなった。 大学生の頃は、それでも彼氏のいない女友達で集まっていたが、そんな友達も、職場では順調に付き合う人を見つけ、自然と声を掛け合うことが無くなった。 今の仕事があまり好きでは無く、職場の人とプライベートまで付き合いたくなかった明日香は、結果、誕生日、つまりクリスマス・イブをひとりで過ごすことが多かった。 そうは言っても、世の中の華やかなクリスマス・イブの雰囲気の中、誕生日をひとり部屋で過ごすのも寂しく、毎年、誕生日には街に出て、ひとり食事をした。 さすがに少し人恋しくなるものだ。 スパーリングワイン一杯となにか一品を食べ、帰りに小さなケーキ(だいたいクリスマス仕様だが、誕生日ケーキのつもり)を買って帰る。 部屋に戻ってからテレビを見て風呂に入り、パジャマに着替えて、コーヒーを淹れ、ケーキを食べ終わる頃には日が変わり、誕生日も終わる。 それを大学卒業後3年続けてきた。今日で4回目だ。 明日香は証券会社の浦和支店で営業を担当していた。 女性ばかり12名のチームで、上司(責任者)は男性だった。 会社から与えられたリストで電話をし、もし、アポイントが取れたら、自宅へ向かい、株や証券の説明をして納得していただいたら取引をして頂く。 会社がどこからリストを入手しているのか知らないが、基本的に多く資産を持っている人達だ。 飛び込み営業をさせられているわけでも無く、一日中足を棒にして外回りをするわけでも無い。 それどころか、外に出るのは多くても週3~4回(つまり、アポが取れるのもその程度)、それも会社の営業車を使っての移動だ。 これだけを見れば、悪い仕事では無いのだが、問題はノルマだ。 名前の知られている証券会社だし、ノルマが達成できなくても、明日香達一般の社員が、怒られたり、ましてや怒鳴られる訳ではない。しかし、ノルマが達成できないと、やはり周りの目が気になり、居づらい雰囲気になる。明日香は毎月、ノルマギリギリか少し達しなかった。 「高橋(明日香の名字)さん、今月上手くいかなかった原因を二人で考えてみよう」そう言って、チームの責任者は、日報を元に、ここはこうした方が良かったかな、ここは今度はこう言ってみよう、などと気を使いながら指導してくれる。 おそらく、彼はチームのノルマが達成できていないと、上司から怒鳴られている。 それが判っているので余計に辛い。それに、このような営業は向き不向きが絶対にある。何事にも明るく、サバサバしていて、叱られていることにも気づかない一年後輩の同僚(理恵)をうらやましいと思う。 先日、理恵が上司(責任者の男性)の愚痴を言っていた。 上司と一緒にお得意様へ挨拶に行った理恵が、説明資料を持っていくのを忘れていた。 上司は気を使って『君は営業なんだから、客先へ行く時は、必ず資料を持っていくものだよ。事前に確認しなかった俺も悪かったが』と注意したらしい。 彼女の愚痴は「〇〇さん(上司の名前)、事前に私が資料を持っているかチェックしないなんて、上司として失格ですよね。そのせいで私、お客様の前で恥を掻きました。謝ってもらいましたけど」だった。上司から注意されているのに気づかず、全く、応えてなかった。 私なら、確実に落ち込んでいる。 小さな事でもクヨクヨする自分は絶対にこの営業に向いてない、と明日香は確信していた。 かと言って、仕事を辞める勇気も無かった。片親で明日香をそだてた静岡にいる母親は、明日香が名の知れた会社に入社したのを喜んでいた。 浦和支店には、自分よりも成績の良くない先輩がいた。当然、他のメンバーからも浮いている。あのようになりたくないと思うから、余計に日々の営業数字が怖い。 彼女は明日香よりも居心地は悪いはずだ。ある時、どうしてそんなに精神的に強いのか、と訊ねた事がある。 「石になるのよ」 その時、彼女は真顔で言った。 「石?」 「そう、石。悩みそうになると、『私は石だ』と思い込んで思考を停止して、時間が過ぎるのを待つの」 なるほど、石になれば悩まずにすむ。 妙案だと思ったが、残念ながら、明日香は石になれなかった。 だから、ノルマを達成できない時の月末になると憂鬱になった。反対に、ノルマを達成できているときは、気持ちも軽い。今月は2ヶ月ぶりにノルマを達成出来そうだったので、気持ちに余裕があった。 なので、パスタが届いたとき、いつもは心の中だけで言っていた自分への『お誕生日おめでとう』の言葉が思わず口から出てしまったのだ。 スパークリングワインを飲み、前菜代わりのサラダとメインのつもりのパスタを食べた。誕生日だからゆっくり食べようと思っても、ひとりで食べると、話す相手もいないので、どうしても早くなってしまう。 20時30分、店を出て、丸の内プリックスクエアにあるJoel Robuchon(ジョエルロブション)でハートの形をしたケーキ、ノエルブランブランを張り込んで買った。 ケーキを買って、丸の内中通りに出ると、通りの両側に続くシャンパンゴールドのイルミネーションがとても美しかった。 『キレイ!』去年は渋谷で食事をし、ひとりで「青の洞門」を見に行った。丸の内のイルミネーションを見るのは初めてだった。 イルミネーションの写真を撮ろうと、ケーキの袋を左手の薬指と小指に掛け、両手の親指と人差し指でスマホを構えた。 夜景モードの焦点が合い、『よし、撮ろう』と思った瞬間、『ドン』と背中をつよく押された。 あやうくコケそうになるほど、前につんのめり、軽く手を着いた。携帯も肩に掛けていたバックも、それに買ったばかりのケーキも放りだしてしまった。 振り返るよりも早く「すみません!!」と大きな声を後ろから掛けられた。 自分と同年代の男性だった。 男性は慌てていて、手を付いている明日香を抱え起こそうと手を伸ばしかけたが、おそらく身体を触ってはいけないと思ったようで、躊躇(ためら)った。 「怪我はないですか」 「はい、大丈夫です」 その返事を聞くと、彼は散らばった携帯やバッグなどを拾い集めた。 携帯のケースについた汚れを手で払いながら「携帯、大丈夫ですか?」と訊いた。 携帯を見てみると、特にキズは着いていなかった。 「大丈夫みたいです」 「バッグはどうですか? こぼれたモノを拾って詰めたつもりですが、無くなっているモノは無いですか?」 明日香は中を調べた。整理して入れていたモノが乱雑にはなっているが、無くなったものは無いようだ。 「ええ、これも大丈夫みたいです」 「よかった。でも、これはダメです」 そう言って、ケーキの袋を差し出した。 そして「Joel Robuchonですね。まだ、開いてるかな。少し待ってて下さい」そういって、袋を持ったまま、走り出した。 「あっ、構いません。大丈夫ですから」 そう言ったが、それを無視して、 「いいですか、少しだけ、待っててくださいよ」 そう叫んで、店の方へ走っていった。 呆然と男性を見送りながら、笑ってしまった。 男性は、きっちり10分後、ケーキを揺らさないように前につきだしながら、息を切らせて急ぎ足で戻って来た。 「すみません、このケーキ売り切れてたので、こっちを買ってきたのですが・・・」 見ると、鮮やかな赤色のノエルフレーズだった。 「え? でも、これ高いですよ」 「構いません。本当に申し訳ありませんでした。イルミネーションを撮そうと、携帯を構えたまま、後ろずさりしてぶつかってしまいました。怪我が無くて本当に良かった」 それから「お誕生日、おめでとうございます」と言って、ケーキを差し出した。 「え? どうして?(誕生日だと知ってるの)」 「すみません。バッグを拾ったときに、免許証が見えたものですから」 「あっ、なるほど」名前や住所も見られたかと思ったが、そんなに変な人とは思えなかったので、気にならなかった。 「僕のせいで、誕生日が台無しですね。すみませんでした」 「いえ、そんな・・・」 「おめでとうございます」もう一度、言った。 「ありがとうございます。台無しではないですよ。ケーキ、すみません。得しちゃった」 「よろしければ、イルミネーションをバックに写真をとりましょうか?」 「え? いいんですか? お願いします」 義男は明日香のスマホを受け取って、2枚写真を撮った。 一瞬、一緒の写真を、と思ったが出合ったばかりの女性にそれを言うのはさすがに(はばか)られた。 「確認してくださいね」義男はスマホを返しながら言った。 「キレイに撮れています。ありがとうございます」 「よかった、お気を付けて・・・」 その声に送られて、明日香はその場を離れた。 東京駅から浦和へ帰るために京浜東北線に乗った。秋葉原で多くの人が降り、座れた。 電車の中で、先ほど男性からかけられた言葉を思い出していた。 『お誕生日、おめでとうございます』 メリークリスマスの付録ではない『お誕生日、おめでとう』の言葉を久しぶりに聞いた気がして、嬉しくなって来てた。 ケーキの袋を見た。 男性が買ってくれたJoel Robuchonのノエルフレーズは明日香が買ったノエルブランブランよりも一回り大きかった。 『ふう、これは、さすがにひとりでは食べられないなぁ』ため息をついた。電車は王子を通過したところだった。 『でも、悪いクリスマス・イブではなかったな』そう思うと思わず笑みがもれたところで、思い出した。 スマホの写真を見た。イルミネーションをバックに微笑んでいる自分がいる。良い表情だ。自分でもそう思う。あの男性のおかげだ。 『良いクリスマス・イブだったな』今度はそう思った。 ・・・・・・ 一方、電車の中でため息をついている者がいた。中央線の電車は中野を通過したところだった。 『今日は、散々だった。いや、今日も・・・か』義男は心で呟いた。 『散々だった上に、最後の最後に見知らぬ女性に迷惑を掛けてしまった』 3年間付き合っている女性がいる。大学の後輩だったが、大学時代に面識はなかった。卒業後、友達の紹介で付き合い始めた。 明るくて可愛いのだが、気まぐれで困る。A型(血液型の事)の義男はなんでも計画的に物事を進める。一方彼女は奔放だった。 今日も「クリスマス・イブは雰囲気の良いところで食事をしたい」と言うので、丸ビルのAUXAMIS TOKYO(オザミトーキョー)のコース料理を予約した。 なのに・・・なのになんと直前になって「体調が悪い」とキャンセルされた。 体調が悪いなら仕方が無い。ただ、彼女の場合はそれが信じられなかった。3年も付き合っていると、彼女の癖も判る。本当に何かを伝えたい時は電話をしてくる。そうで無いときはラインで済ませ、その後しばらく、こちらの返事は既読にならない。 付き合っている女性を信じられないというのは、どうかと思うが、今日は、ラインだけだった。日頃の付き合いを考えると、すっぽかしだと思ってしまう。 さすがにレストランに申し訳なく、ひとりで食べに来て、二人分の料金を払おうとした(さすがA型)が、ひとり分で大丈夫だと言ってくれた。 自棄(やけ)も手伝い、ワインも進んだ。メインの『蔵王牛リブロースのロースト』も美味しかった。 が、所詮はひとりでの食事。周りよりは早く食べ終えてしまった。 本当に食事が好きな人は、ひとりの方が良いのだろうが、義男はそこまで食に拘っているわけではないので、ひとりでの食事は(美味しかったが)面白くなかった。 早々に切り上げ、今日、二人で行くつもりだった丸の内中通りのイルミネーションを見に行った。 ひとりで寂しかろうが、つまらなかろうが、綺麗ものは綺麗だ。 思わずスマホで撮影した。 さらに良い構図を求めて、後ずさりしたときに、彼女にぶつかった。 『彼女もひとりのようだった。彼女は丸の内へ何しに来ていたのだろう。勤めているのだろうか』 義男は渡したケーキの代わりに貰った潰してしまったJoel Robuchonのケーキの袋を見ながら、そのような事を考えていた。 煌びやかな自分の彼女と比べる訳では無い(いや、比べている)が、大人しく(しと)やかそうな女性だった。地味な服装だったので目立たないが、普通に美人だった。 義男は食事をしたAUXAMIS TOKYO やケーキを買った Joel Robuchonのような店に普段から興味がある訳では無い。どちらかと言えば、吉野家や日高屋のメニューに詳しい。 (しつこいが、A型なので、準備を怠らないように)あくまで付き合っている彼女が喜ぶだろうと調べていただけだ。Joel Robuchonも気まぐれな彼女が急にケーキが欲しいと言った時に、買いに行けるように数件ピックアップしていたケーキを扱う店の中にあった。まさか、恵比寿に三つ星のレストランがあるとは知らない。義男の中ではJoel Robuchonはケーキ屋さんだ。 なので、潰してしまったケーキの袋を見たときに、店の場所は直ぐに判った。 『このような役に立ち方もあるんだな』義男は苦笑した。 ぶつかった彼女のおかげで、クリスマス・イブのデートをすっぽかした彼女、理恵への憤懣とショックは無くなっていた。 『悪いクリスマス・イブではなかったな』そう思うと思わず笑みがもれた。 第1話「クリスマス・イブ」 完
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