1.ミルク部

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「知立」  その声は、振り返らなくてもわかる。  放課後の騒がしい喧騒から取り残されているような廊下の隅だからこそ、この低い声はよく聞き取れるのだ。  職員室のすぐそばにある自動販売機に、私がイチゴミルクを買いにくるのは、イチゴミルクが好きだから。  ……なんて単純な理由なんかじゃなくて。  八汐先生に偶然でも会えたらいいな。  少しだけでも目が合えばいいな。  できたら話がしたいな。  そんな気持ちがあるから、ここまで来るのだ。  だけど今日は先生のほうから話しかけてきてくれた。  昨日はお昼休みに職員室に呼び出されて、今日は放課後に先生が呼び止めてくれた。  これはもう私と先生、両思いなのでは?  そんな飛躍し過ぎの妄想をしながら、とびきりの笑顔で振り返る。  先生はこちらに駆け寄ってきて、デフォルトの怒ったような顔で聞いてきた。 「帰るのか」 「先生が私ともっといたいって言うなら帰りませんよ」 「今日は部活はないのか?」 「華麗なスルー。まあいつものことですけど……って、部活?」 「そう。今日はないのか」 「ないもなにも、入部してないですし」  私がそう答えると、先生は困ったように眉間の皺をさらに深くさせる。  それから右手に持っていた白い紙を、こちらに見せてきた。  よくよく見ると、それは入部届でミルク部へ入部する旨が書かれてある。  私の名前が書いてあった。  こんなもの書いた覚えはないけど、でも、紛れもなくこれは私の字。  ふと、余白に『岡崎』という文字も書かれてあった。  これは私が昨日、高原先輩に出身地を説明した時に書いたものだ。  紙が変だな、と思っていた。  今思えば、不自然な線が見えていた気もする。 「これ、誰が持ってきたんですか?」 「高原だよ。昨日、知立は用事があるからって自分が代理で届けに来たって」  そこまで聞いて、私は走り出していた。  背中のほうから聞こえた『走るなー』の先生の声は、なぜかいつもよりずっと優しい。  私は走るのをやめ、早歩きをしながら鼻息を荒くする。  あんの先輩!  虫も殺さないような顔と雰囲気かもし出していると思っていたけど、真逆だった!  私に入部届に名前を書かせるために、出身地と名前を聞いたんだ。  きれいな名前だね、って笑ったのも全部うそかよ!  そう思うと悔しいような、腹立たしいような。  私は怒りをこめて、大股で廊下を歩く。  もちろん目指すは三階の音楽準備室Ⅱだ。
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