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なにごともなく一日が終わった。結局今日も、掃除以外なにもしていない。いつになったらみんなのように、お仕事できるんだろう。
「雛川さん、帰ろうか?」
昨日一緒に帰ったことで、部署で一番仲良くなった山田さんが誘ってくれたのは、素直に嬉しいことだった。
「山田はひとりで帰れ。俺はヒツジに話がある」
返事をしようとした矢先に、須藤課長が山田さんに帰ることを促してしまった。
(うわぁ、これって昨日の二の舞じゃん。またふたりで、無駄に言い争うことになっちゃいそう)
「せやな。山田くんは、ひとりで帰ったらええで。昨日ヒツジちゃんと一緒に帰って独占しとるんだし、上司命令はきかなあかんで」
意外にも猿渡さんが間に入ってくれたことにより、昨日のようないさかいが起きなくて済みそうな雰囲気になった。
「雛川さんはどうしたい?」
安心しきっていたところに、山田さんが私に問いかけるという荒技を繰り出した。
「あー、その須藤課長の用事って、スマホゲームのことですよね?」
振り返って訊ねると、なぜだか顔を俯かれてしまった。
「それよりも……今後の仕事について、込み入った話をしたい……のも、ある」
まるで、あらかじめ用意していたセリフを読んでいるような辿々しい言葉に、不信感を抱いてしまったけれど、仕事の二文字が出た時点で、断ることができなくなった。
「山田さん、そういうことなので、今日は一緒に帰れません」
私が言い切った途端に、山田さん以外の職員が慌ただしく腰をあげて、帰り支度をはじめる。息を合わせたかのようなその動きに驚いていると、山田さんが口を開いた。
「皆さん、須藤課長を補助していらっしゃるんですね」
そのセリフを機に、一瞬で部署に変な空気が漂ったのがわかった。いつもなら我先に口煩く注意する須藤課長がおとなしいのも、どこかおかしい。
「なんの話をしとるのかわからんわ。僕らはこれから飲みに行く約束をしとるから、こうして急いでるだけやで。ヒツジちゃんに帰るの断られたことやし、山田くんも一緒に行こか?」
「結構です。それじゃあお先に失礼します」
にこやかに誘った猿渡さんとは対照的に、硬い表情のまま山田さんが部署を出て行った。
「ほな、僕らも居酒屋の予約時間が迫っているんで、お先に~。ヒツジちゃんの歓迎会も計画しとくから。そんじゃまた明日!」
そそくさと出て行く猿渡さんを追いかける感じで、ほかの職員も帰ってしまった。
(仕事の話を聞いたら、私もさっさと帰ろう……)
そう思って須藤課長を見ると、これから話し合うというのに、なぜかスマホを弄ってる姿が目に留まる。気難しい顔で画面を食い入るように見つめる感じから、わんにゃん共和国をプレイしていることがわかってしまった。
「須藤課長、仕事のお話はどうなってるんですか?」
プレイする手を止めるべく、仕事の二文字を口にした。すると、じっとりした上目遣いで私を見る。しかも返事すらしない。
「須藤課長?」
「昨日山田と帰って楽しかったから、今日も帰ろうとしたんだろ?」
須藤課長は乾いた声で告げながらスマホを手放し、肩をすぼめて体を縮こませる。どこか拗ねた様子がかわいくて、思わず笑ってしまった。
「笑うなよ……」
「もしかして山田さんに、ヤキモチ妬いてます?」
当てずっぽうな私のセリフで、須藤課長の口元が一瞬だけひん曲がったけど、前髪が揺れるくらいに首を横に振ってから。
「ヤキモチなんて低レベルな感情じゃなくてだな、その……あ~なんだ」
うまい言葉が見つからないイライラを解消するように、須藤課長の人差し指がデスクを何度も突く。
静まり返った部署に、デスクを突っつく音がリズミカルに響き渡った。
「あれだ、あれ。俺も仲良くしたいんだ、みーたんのために!」
「はあ?」
「ほかはえっと、女心が知りたくて、だな」
須藤課長の口から『女心』なんていう、不穏なワードが出るとは思わなかったので、反射的に退いてしまった。
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