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「おはようございます。」
さっきと打って変わり、社員の中島さんに聞こえるように挨拶をする。それでも声が小さかったのか、中島さんは一拍おいて、おはよう、と素っ気なく言った。愛想が悪いな、なんて僕が言えたことじゃないんだけれど、なんだか中島さんは表情が固くて何を考えているのかわからない。わからないものほど怖いものはない。そう考えると自分以外の人間はみんな怖い。信じることもできない。でも、人間不信なんて言われたくはない。だってそんなのみんな同じ。そう思い込み、自分を慰めるのも虚しい。
制服に着替える。これから数時間、僕は機械だ。人間だって気持ちは忘れて、無心になって仕事をしなくちゃいけない。僕は機械だ。
「伊坂くん、レジお願い。」
中島さんがバックヤードの扉を少し開けて顔を出す。その顔は相変わらず少しも動かない。小さい声で返事をすると、彼女もまた機械のように仕事に戻る。僕はレジへ向かい、今日はあまり客が来てほしくないな、と考えながらそこに立っていた。
夕方から夜に移り変わり、ちらほらと客が来店する。サラダだけ買っていく女子高生、煙草の番号を言わずにメーカー名で言うサラリーマン、コーヒーと弁当を陽気にレジへ持ってくる大工、ゼリーやスイーツを嬉しそうに選ぶOL。誰であれ同じ対応をとり、ただ間違えのないようにこなしていく作業。店内は僕の願いとは裏腹に、次第に人が増えてレジに列が出来始める。
「レジお願いします。」
店内のどこにいるかもわからない中島さんに声をかける。あと一時間ほどすればバイトの女の子も来てくれるのだが、二人でまわすにはかなりしんどい状況だ。一人なら尚更。しかし中島さんはなかなか来ない。
「レジお願いします。」
先ほどよりも大きめの声で言う。バックヤードにいるのか?なぜか来ない。とりあえず会計を済ませ、次の客の対応をする。ちらりとレジ前の列に並ぶ人の顔を見ると、少し苛立っている様子の中年男性がいる。まずい、面倒だな。
「レジお願いします。」
三回目、やっと中島さんが気付いて店の奥から来た。自分の声が小さくて聞こえなかったのだろうか。自分なりに大きめの声を出したつもりだったが、よくわからない。彼女の感情が表に出やすければこんな不安も抱える必要ないのに、なんて、他人のせいにしてみる。
「お次のお客様どうぞ。」
ガンっ、とレジに缶コーヒーを乱暴に置いたのはさっきちらりと見えた中年男性だった。
「お待たせいたしま…」
「セブンスター」
言い終わらないうちに、煙草のメーカーを言い放つ。番号が書いてるのだからそれを言ってくれよ、と心の中で悪態を吐きながら、かしこまりました、と謙る。後ろを向いて、セブンスターを探す。どこに何があるかはいつまで経っても覚えられない。番号だったらすぐわかるのに、と焦りと苛立ちがもやもやと胸を渦巻く。
「その、左下だよ。」
後ろで怒りを孕んだ声で彼が言う。僕は必死になって、ようやく見つけたセブンスターを手に取る。
「君、遅いよ。急いでるんだよ。」
煙草のバーコードを読み取っていると、苛立ったように彼は僕に言った。自分が悪いのはわかっている。けれど、そんなきつい言い方しなくてもいいじゃないかと腹が立つ。
「申し訳ありません、こちら二点で…」
「謝れば済むと思ってるでしょ。」
核心を突かれ、手が一瞬、止まる。大丈夫だ、彼に会うことはきっともうない。こんな奴の言うことなんて聞かなくていい。この場だけ凌たらそれでいい。
「申し訳ありません…」
「はあ。もういいよ。いくら。」
溜息まで吐かれ、僕まで溜息を吐き出したくなる。喉元まで出かかった溜息を、ごくりと唾と一緒に飲み干す。
「五百八十五円です。」
そう言うと、乱暴に千円札を投げつけ、お釣りを渡し、レシートを渡そうとすれば「いらない」と素っ気なく言われた。なんでもない。なんでもないことだ。こんなことよくあることで、僕だけが経験していることなんかじゃないだろう。僕は機械だ。今だけは。
男は僕を睨んで、店を後にした。ふと、ちらりと隣のレジの中島さんを見ると、他の客の会計をしている。嵐が去って呆然とする僕に、不意にこちらを向いた彼女が目で「なにしてんの」「次のお客様待ってる」と訴える。ハッとして、僕はまた「次のお客様どうぞ。」と何故か大きめの声で言った。
「伊坂くん、もうこのバイト始めて半年くらい経つでしょう。いい加減慣れてくれないと、私も何もかも世話してらんないのよ。」
客足が途絶え、次のシフトに入っている女の子が店に出ている間に、僕は説教を受けていた。さっきの煙草の客との会話を聞いていたのか、彼女はかなりきつい口調で僕を糾弾する。
「すいません。」
自己満足な謝罪。別に謝ったって今日のミスがなくなるわけじゃない。
「すいません、すいませんってそれしか言えないの?」
あなたもさっきの客と同じことを言う。腹が立つ。
「す、」
すいません、また言おうとしてぐ、と言葉に詰まる。
「もう子供じゃないんだから。仕事くらいちゃんとこなしてほしいの。何も難しいこと言ってるんじゃないのよ、こっちは。」
真に受けると辛くなるから、情けなくも泣きそうになるから、大丈夫、大丈夫、こんなことどうでもいいと思い込む。そうして逃げてないと、今すぐにでもしゃがみこんで泣いてしまいそうだった。
「レジお願いしまーす。」
女の子の黄色い声が飛ぶ。中島さんがもう帰っていいから、と言って店内へ消えていった。バックヤードの狭いこの場所で、僕は一人になった。
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