第一章 明治から来た男

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「ただいま帰りました。180cmの背広、確かに購入してきました」 「はいはい、お疲れさん。袖丈詰めと裾上げは出来るかな?」 「ミシンがないので手縫いで雑仕事になるんですけど」 「家庭的だね」 直様に採寸が行われた。京陽が持っていたソーイングセットのみで行われる背広の袖丈詰めと裾上げは彼女の言う通り、ミシンを使ってのものより雑な仕事ではあったが、篤崇が着るには十分な出来であった。 「済まないでごわす。見ず知らずのおいどんのためにこんな上等な背広まで買ってくれた上に裁縫で大きさまで合わせてもらって」 「いえいえ、いきなりこんな場所(ところ)に来て右も左も分からない方を放っておけなかっただけですよ」 「本当に…… 優しか人達ばい……」 篤崇は二人の優しさに感涙し、むせび泣いた。 「ご飯が来るまでお酒でもどうですか? 九州の芋焼酎じゃないのでお口に合うかどうかはわかりませんが」 「いいやいいや、お酒だったら何でも大丈夫たい。ワインやビールやウヰスキーでも何でもよかとです」 何故に篤崇は明治当時の日本で馴染みのない酒を飲めるのか。薩摩藩が英国(エゲレス)の武器を輸入していたついでに洋酒も飲んでいたからである。それでも一番好きな酒は鹿児島産の芋焼酎である。 「そうそう、地元のワイン買ってきたんですよ」 京陽は袋の中よりワインの箱を出した。篤崇はそれを見た瞬間に驚いた顔を見せた。 「な、なんと! 日本でもワインを作れるようになったと言うのか! しかも地元と言うことは! 那須野が原に葡萄農場ば出来るようになったちゅうことか!」 日本のワイン製造の歴史。明治政府は殖産興業の一環としてぶどう栽培とワイン醸造を推奨した。その切欠はペリーが将軍に献上したワインだとされている。 明治三年に山梨県にて日本初の国産ワイン醸造所が設立されたのだが、製造技術の未熟さと、防腐剤がまだ万全でなかったことにより数年で終焉を迎える。それ以降、多くの人々がワイン醸造に挑戦するのだが、いずれもうまく行かないのであった。 そして、明治十年。大日本山梨葡萄酒が設立。日本初の民間企業による国産ワイン醸造所である。しかし、日本人がワインに馴染みが無かったことで明治十九年に解散の憂き目に遭ってしまう。日本産のワイン製造はこれで息の根が絶たれたかと思われたが…… 篤崇は日本のワインの歴史においての不遇の暗黒黎明期の真っ最中を生きていたために、こうして日本でワインを醸造(つく)ることが出来るようになったと知り驚くのであった。篤崇は不遇の暗黒黎明期に醸造(つく)られたワインの不味さを知っていた。ただ単に当時のワイン製造技術が未熟だったからである。
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