第一章 明治から来た男

12/13
前へ
/35ページ
次へ
「あの、飲んでみます?」 京陽はホテルの部屋にあったコップにワインを注ぎ、篤崇に差し出した。そのワインレッドの美しさに思わず心を奪われる。 「皮も種も混じっておらんではないか。日本のワインは混じり物があるのではないか」 ここで言う混じり物とは細かく砕かれた皮や種をいう。明治当時に製造された日本のワインは醸造技術の未熟さ故に不純物が混じっていたのである。 「明治の頃より、技術が上がったんですよ。濾す技術一つにしても違うんですよ」 「で、あるか」 篤崇はワインを一口呷った。まろやかながらに重厚感のある官能的な甘みと渋みを持った葡萄の風味が篤崇の舌の上を舞い踊る。そのまま一気にコップの中に入ったワインを飲み干してしまった。 「輸入されたものより美味しいぞ! おかわりを所望する!」 「苺や梨や林檎のワインもありますよ」 京陽はテーブルの上に勝ってきたワインを全部乗せた。篤崇はそれを一杯一杯飲んでそれぞれの味を堪能する。 「これ全部、ここで作られたワインだと言うのか!」 「ええ。そうですよ。大田原にワインの蔵元があるんですよ」 「し、信じられん……」 ものの数十分でワインボトルは全て空になってしまった。そう、二人はバッカスの化身を思わせるぐらいの蟒蛇(うわばみ)だったのである。拓見は下戸である故に二人を苦笑い気味ならがら羨望の目で見ることしか出来なかった。 「京陽ちゃん、アンタ酒よう飲むねぇ! あいつを思い出すよ!」 「あいつ? 薩摩藩の方と良く飲んでいたんですか?」 「いいや、土佐藩のあいつだ。あいつは本当に蟒蛇(うわばみ)だった…… 確か、坂本……」 「坂本龍馬ですか?」 「なんや、この名前で呼ばれちょるんか。あいつを龍馬って呼ぶやつはあんまりおらんかった…… 確か直陰(なおかげ)とか直柔(なおなり)って呼ばれちょった」 坂本龍馬の龍馬。実はあだ名である。本名は坂本直陰(なおかげ)、土佐にいる間、東京に剣術修行に来ている間も名乗っていた名前も、脱藩し京都で名乗っている名前も本名の直陰であった。寺田屋事件にて襲撃されたことで「この名前は縁起が悪い」と、寺田屋の女将に言われたために直柔(なおなり)に改名した。それから暗殺されるまで名乗っていた名前は改名後の直柔(なおなり)である。 龍馬と言う名前は母親が出産の前日にみた「龍の夢」と、直陰(なおかげ)の背中に「馬の鬣」のような毛が生えていた、と、言うエピソードを二つ合わされたことを聞いた姉、乙女がフィーリングで考えた名前であるとされる説がある。 極めてマイナーとされる坂本龍馬の本名。それを知っている時点で拓見は「こいつ、本物だ」と確信を得た。まさか坂本龍馬と一緒に酒を飲んだ経験まであるとは。 この男は日本の幕末や明治維新のブラックボックスかも知れないと思うと、拓見は興奮し、心臓がバクバクと激しい鼓動を打ち始めるのであった。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加