プロローグ

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 明治の幕開けと共に江戸は東京府へと名を変えた。東京府より奥州街道をなぞり百五十公キロ程離れた場所に不毛の原野が広がっていた。 その不毛の原野の名は那須野が原。四万ヘクタール(東京ドーム、約八千五百個分)にも及ぶ広大な土地である。 四十万年程前の太古の昔、栃木県に鎮座する火山群体の高原山が噴火、火砕流が発生し、塩原カルデラを形成した。その後、そこを流れる二つの川「蛇尾川(さびがわ)」と「那珂川(なかがわ)」の砂礫が堆積し、那須野が原の大地が生まれたのである。 塩田カルデラと砂礫によって形成された大地は水を地下に浸透させてしまう。このせいで二つの川は水の無い川となり、水気(みずけ)のない不毛の原野に至らしめていた。 奥州街道があり、人通りが多い那須野が原であったが、不毛の大地故に単なる通過点として長い間扱われていたのである。  不毛の地であることを差し引いても、那須野が原には魅力があった。四万泊タールの広大な大地が極めて平坦なのである。そこに目を付けた者たちがいた。それは「貴族」と呼ばれる明治維新を牽引し、新時代を築き上げるために力を尽くした貴き者たちである。 貴族達は明治政府の推し進める殖産興業政策の促進のために、那須野が原に農場を次々と作ったのである。 だが、その道程は決して楽なものではない。貴族達は那須野が原中央の川に水が流れず、水不足故に開墾も開拓も上手く行かずに困っていた。 そんな中、一人の薩摩隼人が鋤で大地の開墾を進めていた。名は城ノ元篤崇(しろのもと あつたか)、九州は薩摩藩出身の維新志士で、西郷隆盛と共に維新を戦い抜いた益荒男である。西郷隆盛が征韓論(遣韓論)の意見の食い違いで下野した際に付いて行こうと思ったのだが…… 「お(まん)、信吾(西郷従道)にちちょってやれ(付いていてやれ)」の命を西郷隆盛から受け、彼の弟である西郷従道の元で働くこととなった。 西郷隆盛が西南戦争で生命を散らしたと聞いた時には「つらか……」と瞳を泣き腫らした。幼少期より共に郷中教育を共に受け、生きるも死ぬも一緒にと誓った仲であるのに何故「一緒に来っ(来い)」と、言ってくれなかったのかと恨む思いすらも芽生えていた。同郷の大久保利通も気持ちは同じで瞳を泣き腫らしたと言う…… しかし、篤崇の中に西郷隆盛との約束はしっかりと生きている。西郷隆盛の弟の従道も篤崇にとっては郷中教育の同志、それを支えることが(おい)の使命である、こうして篤崇は西郷従道の元で勤めを続けた。 西南戦争での心の傷も癒え、明治十四年を迎えた頃、篤崇は西郷従道よりとある仕事を頼まれたのだった。
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