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翌日の月曜日、試験問題の草案を原沢に渡した。津久見が帰ってから試験問題を再び作り始めたが、その後で日記を読む誘惑にあらがいきれなかった。寝たのは午前一時を回っていた。少々眼の奥が痛む。
課題を与えられると早く解決したくなるのが調べ物好きの性(さが)である。すぐにでも県立図書館に行きたかったが、生憎県立図書館は月曜日が休館である。今日のところは日記を丁寧に読み込んでおき、調査できるものについてはインターネットであたっておいて、県立図書館で調べるべき項目を精選しておこうと考えた。
津久見が持ち込んできた、表紙に『 日記帳 杉田鶴子 』と書かれた日記帳であるが、大きさは教科書サイズ(A5版)よりは大きくて、大学ノートサイズ(B5版)よりは小さい、両者の中間くらいの大きさである。表紙の色は朽葉色というのだろうか、桃色に近い落ち着いた色である。よく見ると表紙一面に梅の図柄が捺(お)されており、地模様になって独特の風合いを生んでいる。青い罫線の引かれている薄様の罫紙が袋綴じにされて、ノートでいうリーフになっている。日本古来の言い方でいえば「一丁」ということだ。その薄様の袋綴じリーフ三十枚が和綴じにされて冊子となっている。つまり、三十枚の薄様の用紙が二つ折りに綴じられて、六十ページの冊子(=帳面)になっているということである。各ページには十二行分の罫線が引かれており、右側ページの奥(つまりは各丁の左隅)には「梅林堂製」と印刷されている。「梅林堂」をインターネットで検索してみると、検索結果の多くは和菓子店が占めていて、該当しそうなものには辿りつかなかった。おそらくは鳩居堂のような、自社の製品も扱っている文房具店だったのだろう。
日記の記載は七月二十日の夏休み初日に始まり、九月十日の夏休み最終日(一般の学校は八月三十一日までだが、学習院は九月十日まで夏休みだったようだ)まで、一日も欠けることなく記録されている。一日の記述の後は一行も空けることなく次の日の記述になっているので、日記帳に空白の行はない。夏休みが終わった後、担任教員にでも提出したのであろう、ところどころに朱墨でコメントが書かれていたり、誤字脱字が訂正されていたりする。
文章は文語体で書かれており、雅文調の修辞も見られる。句読点は付されていない。踊り字(ゝ)が使われている。変体仮名(可(か) 奈(な) 尓(に) など)が用いられている。漢字は戦前なので当然ながら、常用漢字ではない昔の形である。温度については現在一般的に使われている「摂氏」ではなくて「華氏」で表記されている。日記初日の「温度八十七度」は摂氏に換算すると三○・六度である。
東京の地名として「赤坂」「一ツ木通り」「平河天神」などが出てくるので、赤坂近辺に暮らしていたことが推測される。
内容は七月二十日からの東京での夏休みの日常、八月五日から八月二十八日までの那須の青木別邸で過ごした夏休み、八月二十九日から九月十日まで、東京の自宅に戻ってからの様子が記述されている。ほとんどが日々の平穏な生活が綴られたもので、取り立ててドラマチックな出来事は描かれていない。那須で過ごした日々といえば、朝起きて「深呼吸体操」をし、散歩を楽しんだり、弟や妹、親類の子どもたちと遊んだり、鹿の姿を見ては喜び、鳥の声に風情を感じ、夕方には入浴して夕涼みをし、日記をつけて休むといった、避暑地での生活が綴られている。何日間かの記述を見てみれば、次のようである。
七月二十九日 雨 火曜日 温度七十六度
今日は朝より雨降りてなんとのう鬱陶し幼き妹病の為醫者來らる朝餐の後復習し日記の下書し清書す来月の三日ごろ那須に行くなれば母上色々支度せられおいそがし我もお手傳いす妹の為千代紙にて姉様折紙にておさんぼとうおつてあげる大そう喜び機嫌よし夕方入浴し種々の本など讀み弟の為世界お伽噺をよみきかせる
八月五日 晴 火曜日 温度九十二度
いよいよ今日は那須へ行く事となれり四時起床し身支度す天氣もよく好都合なり食後祖父様に御あいさつして自働車にのり上野停車場に行き七時發の汽車にて東京を出でたり汽車中はいと暑く温度は九十二度にも上りたへがたき程なりあたりの景色も東海道とは趣を異にし松林雜木林など多く沿線尓(に)人家少なくいと淋し利根川の景色帆掛船蛇籠など畫の如く平和の眺なり筑波山日光山など眺めつゝや可(が)て十一時汽車は黒磯驛につきぬ農場の人々に迎へられ旅館に行き晝食をすまし自働車にて別荘に向ふ右に那須山左に塩原の連山を眺めつゝひた走りに走る一里ば可(か)り走りし頃鬱蒼と茂れる林に入るこゝよりは父上經營の開墾地なれば事務所青木小學校などを過ぎ三町ばかりの杉並木を通り別荘に着く留守居の人々出迎ふ直に北の方四町ばかりの林間を歩み青木祖父様御先祖方の墓に參り東京よりたずさへ來りし花を捧ぐ一年に一度此那須へ來て墓參する事は我が樂しみなり荷物などとゝのへ英子さん妹と共に庭を流るゝ清き小川に足をひたす旅の疲れもわするゝばかりつめたく心地よし夕餐の後涼しさとつかれとにていつし可(か)床につく
八月七日 晴 木曜日 温度七十九度
朝起き出づればいと涼しく温度は六十八度なり朝の深呼吸体操も心地よくすまし一同と共に防火線に運動に行ききゝやうの花をみなへしなどとり歸る直に花瓶に挿す食後副島さんへ返事を書く當地にては郵便配達人一日に一度來るのみなればそれに間に合ふやうにといそぎ認む復習後英子さんと小川に足をひたす弟等は緑蔭にハンモクをかけ乘るあり池にたらひを浮べ遊ぶあり眞に子供雜誌の口繪の如き様なり東京より避暑に來れる事務所のお客子供三人來たれば庭の芝生にて綱飛び毬投げなどし遊ぶ夕方入浴しウエランダーにて涼み八時床につく
八月二十七日 雨後曇 温度七十六度
樂しかりし三週間は短かゝりし事よ明日は東京に歸る日となれりなんとのう名殘り惜しき心地す今日は深呼吸にも常より力を入れたり雨少し降りゐたればウエランダーにて深呼吸のよけいに運動す復習後荷物とゝのへおし葉にせんとて庭を歩きつゝ色々の草などつみ持ち行く様荷物に入る植木の芽ばえなどもとりかんに入る午後トランプして遊ぶ此夏の形見とて思ひある品を各々持ち寄りて文箱に納め翌檜の木の下に埋めにけり我は千代紙の姉様人形を入れたり後に掘り出だすを樂しみとす後入浴し食後杉並木を散歩し色々整頓し日記の下書し八時半頃床につけり
八月二十八日 晴 木曜 温度九十八度
いよいよ歸京の朝なればとく起床す身支度し食後一同にて墓參す又来年迠は參ゐらぬ事なれば心をこめてお參りせり八時半自働車来る留守居の人々の見送りに挨拶して杉並木を後にし朝風に吹かれ那須山百村山等を後に横手に小川を眺めつゝ一本道を貫きまつしぐらに走り黒磯驛につけり十時發の汽車に乘り見送りの人々に別れをつげし頃汽車ははや動き出せり窓より眺むれば変り行く景色の面白く一同元氣なりしが東京に近づく程に温度高く汽車の寒暖計にては九十八度迠昇りたり今日まで暑さを知らぬ涼しき地にありし事とて實に身は蒸し釜に入れられし如き心地してくるしかりき四時上野停車場へつけりいとうれしく自働車にて家に向ふにぎはしき町の有様に驚くばかり我等は人里離れし静かなる地にありしなり歸宅し直ちに祖父様の御機嫌うかゞふ此のお暑さに何のお変りもなく御丈夫にて先づ安心せり汽車中の汗を流し夕方庭を散歩せしが風だに奈(な)くていとあつし英子さん直子さん方も今日葉山より歸られしゆゑ色々お話などし九時床につきしが暑さのあまりねむりがたき程なり
インターネットで調べ物をするのは楽しくない。情報が簡単に手に入りすぎる。調べ物好きの僕としては、ほんのわずかな手掛かりから、あっちの本こっちの図書と、図書館や本屋を駆けずり回って、砂浜の中から一粒の金を探し出すようにして解決に至るのが無上の喜びであるのに、インターネットは検索するとすぐに答えを教えてくれる。ファイトを殺がれてしまう。そして、一を訊くと九十九を教えてくれるのだけれど、肝腎な一はおぼろげなままだったりする。それにインターネットが教えてくれる情報は責任の所在がうやむやで、信頼を置くことができない。正直なふりをして嘘を教える魔法使いだ。ただ、情報の裏付けをきちんととって利用すれば、インターネットほど情報収集に早くて便利なものがないのも確かだ。
「杉田鶴子」で検索をかけてみたが、結果は津久見が話していたのと同じだった。そこで、まずは「青木周蔵」から探ってみることにする。青木周蔵は歴史上の人物である。当然、ウィキペディアが存在している。
「ウィキペディア・青木周蔵」からはたくさんの情報が得られた。
青木周蔵は明治期に外務大臣として条約の改正に尽力した偉人である。長州藩の村医、三浦玄仲の長男として生まれている。幼名は三浦団七、長じて三浦玄明と名乗った。二十三歳の時に藩主・毛利敬親の侍医で、日本で初めて種痘を行った蘭学者・青木周弼(しゆうすけ)の弟で、後の宮廷大典医となる青木研蔵の養子に迎えられて士族となった。この時、周弼、研蔵から一字ずつをもらって「青木周蔵」と名乗ることになった。同時に研蔵の亡兄の娘で、研蔵の養女となっていたテルと結婚している。つまり、三浦玄明は三浦家の長男ではあったが、その才能を見込まれて、長州の医学の名家である青木家の婿養子に入って「青木周蔵」になったということだ。
青木周蔵は藩校・明倫館で学んだ後、長崎での医学修業を経て、明治元年、藩留学生としてドイツに留学する。医学を学ぶ約束で留学したのだが、ドイツに渡ってから無断で政治経済に転科した。そのことが問題となったが、来独中の山県有朋のとりなしで許された。明治六年に外務省に入省。外務一等書記官を経て本省に勤務した。翌明治七年に駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、プロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合う。明治八年にはオーストリア・ハンガリー帝国公使を兼任、明治九年にエリザベートとの結婚を決意し、明治十年にエリザベートとの結婚について外務省の許可を得るものの、テルとの離婚が青木家から承諾を得られず難航、そのため周蔵がテルに新しい夫を見つけ、その結納金を支払うことを条件とし、計三回テルに夫を紹介して、三回結納金を支払った。
自身の姓名を捨て、名家に養子として入り、名家の当主と養父の名を戴きながら、養家の家業を捨て、養家の娘を離縁し、それでいながら養家の名を継いでいる。青木周蔵とは何者なのか。人としてはどうなんだろうと僕は思わずにいられなかった。
「ウィキペディア・青木周蔵」の「家族」の項目を見ると、青木周蔵の血を引いた子どもは、エリザベートとの間に生まれた「ハナ」一人のようである。
ハナは明治十二年生まれ。プロイセン・シュレージェン州の領主の次男で、駐日ドイツ大使館主任外交官補のアレキサンドル・フォン・ハッフェルド・トラッヘンベルヒ伯爵と明治三十七年に東京で結婚している。二人の間には「ヒサ」という娘が生まれ、ドイツにその子孫が健在であるという。
杉田鶴子が青木周蔵とエリザベートとの間に生まれた娘の娘という可能性は消えてしまった。そして、「ウィキペディア・青木周蔵」の同じ「家族」の項目には次の一文があった。
「養子の青木梅三郎は杉孫七郎(皇太后宮大夫等を歴任)の三男(テルと周蔵の離婚にともない、青木家の家督継承者として梅三郎が養子に入った)」
青木周蔵に関連した文書の中で、ようやく「杉」が登場した。杉田鶴子は青木梅三郎という人物の娘なのだろうか。青木梅三郎の娘であったならば当然「青木田鶴子」と名乗るはずであろう。父の実家の姓を名乗る理由がわからない。
とりあえず青木周蔵と杉家の細いつながりを発見したところで、調査を県立図書館に持ち越すことにした。
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