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 火曜日、原沢から古典の試験問題について、助動詞の出題が多すぎるのではないかという指摘を受けた。僕は、古文読解には助動詞の働きを知ることが不可欠であること、一年生のこの時期に助動詞を徹底的に教え込むことが大切であることを力説して原沢を説得した。結局何箇所か細かな修正をするということで試験問題案を諒承してもらった。あとは印刷するだけだ。一年生の古典の試験は金曜日だから余裕だ。勤務を定時で切り上げて、僕は県立図書館へ駆けつけた。県立図書館は僕にとっての知のベースキャンプだ。必要とする書籍はおおむね所蔵されているし、若い時から使っているので勝手がわかっている。身の丈に合った「行きつけの」図書館だ。閉館までは一時間ほどしかない。効率的に調べなければならない。  『暦日大鑑』(新人物往来社)が天文学の棚に開架されていることは知っていた。明治以降の日付と曜日、干支、太陰暦との対応が一覧になっている重宝な本だ。  日記の八月三十一日に、「今日は今上天皇の御誕生遊ばされしいと目出度き日なり」という記述がある。明治天皇の誕生日は十一月三日、大正天皇は八月三十一日、昭和天皇は四月二十九日であるから、この今上天皇とは大正天皇のことである。この日記は大正時代のものであることが確認された。  『暦日大鑑』で大正時代の曜日を見てみると、七月二十日が日曜日であるのは、大正二年、大正八年、大正十三年の三回である。日付と曜日の組み合わせは二十八年周期で同じになるという。おそらくは閏年が絡む四年間と七曜日との組み合わせなのだろう。日記の記述があるのは七月二十日から九月十日までの短い期間で、閏年の影響を受けないために、『暦日大鑑』からこれ以上絞り込むことはできない。ただし、日記の八月二十三日に「東京にてはコレラなどはやり初めし様なればおそろしく歸るもなんとのういやなり大正五年の時の如くはげしくならねばよきと思ふ」という記述がある。ここからこの日記が大正五年以降に書かれていることは明白なので、大正二年は除外される。日記が書かれたのは大正八年か大正十三年かということになる。ところで大正十三年といえば関東大震災の翌年にあたる。日記の九月一日の記述を見ると、関東大震災については一言も触れていない。もし関東大震災のあった翌年のことであれば、いくら大人でなくても一言くらい触れるのではないだろうか。以上から、確定はできないものの、この日記は大正八年に書かれた可能性が高い。  今日の目的は「杉田鶴子」という人物の素性を確定することだ。県立図書館の蔵書の中に『日本の名家・名門人物系譜総覧』(新人物往来社)という本があるので、この本の中で「杉田鶴子」の名前を見出すことができるのではないかと期待した。だが、『日本の名家・名門人物系譜総覧』に掲載されているのは皇族や旧大名がほとんどで、青木周蔵家の系譜は掲載されていなかった。開架されている同じような名家・名族の系譜を扱った書籍も手に取って開いてみたが、青木周蔵の系譜にかかわるものはなかった。「ウィキペディア・青木周蔵」で参考文献として挙げられている『平成新修旧華族家系大成』(霞会館)には求めるものに近いことが記載されているように想像されるのだが、県立図書館には所蔵されていなかった。  閉館を告げる「シルクロードのテーマ」を聞きながら、とり急ぎ『青木周蔵自伝』(平凡社)、水沢周『青木周蔵』(日本エディタースクール出版部)などの青木周蔵関係の図書を借り出して県立図書館を後にした。帰りの夜道を運転しながら、行くしかないか、と思いを定めていた。  地下鉄・永田町駅に降りるともう三時に近かった。国会議事堂の周辺の公孫樹が午後の光を浴びて黄金色に輝いていた。水曜日、今日から期末テスト期間に入り、生徒は午前中試験を受けてあとは放課となる。教員の勤務時間は通常通りだが、休暇が取りやすい。午後の休暇を申請すると、教頭はすんなりと認めてくれた。そこで新幹線に飛び乗ったのだ。  国立国会図書館は資料請求や複写請求がすべてパソコン端末から行うことになっている。昨夜のうちに登録利用者カードとパスワードを控えたメモを見つけ出しておいた。使い慣れた人には簡便になっているのだろうけれど、たまにしか利用しない者にとってはとまどうことが多い。目的の『平成新修旧華族家系大成』を検索してディスプレイに表示させたところで、閲覧の手順がよくわからない。手を上げて近くにいた案内係に来てもらった。若い男性職員は親切で、資料閲覧の操作手順を一通り教えてくれたあとで、 「この本は人文総合情報室に開架されていますから、そちらに行ってみたほうが早く閲覧できると思います」  と助言してくれた。  国立国会図書館で開架されている本を利用したことはなかった。一階に下りて人文総合情報室に行き、本の所在を尋ねると、女性職員が書棚まで案内してくれた。  目当ての『平成新修旧華族家系大成』を閲覧用の座席で開く。序文や凡例などに多くのページが割かれていて、目指す内容を探し当てるのがもどかしい。  “来た!”  調べ物好きが快哉を叫ぶのはこんな瞬間だ。  目指すものは「青木浩光(子爵)」という見出し人物の項目に書かれていた。この青木浩光なる人物は生命保険会社の医務部副医長という肩書きを持っている。もともと青木周蔵が養子に入った青木家は医者の家系だった。何か因縁があるのだろうか。昭和三十七年生まれとあるから現在五十七歳。現在の日本でも爵位が生きているのだろうかという素朴な疑問を抱く。  青木子爵家の系図は青木周弼を筆頭として表されているが、青木周蔵の養子となった梅三郎の子供の中に「田鶴子」を発見することができた。  『 田鶴子  吉岡範武夫人 明治三十九・二生  』  やはり田鶴子は梅三郎の娘だったのである。梅三郎は福原信蔵の次女である福原文子と結婚し、五男三女をもうけている。長男は「重夫」という人物で、この人は日記の中で「兄上様」として登場する人物であろう。田鶴子は梅三郎の二番目の子どもで長女であった。明治三十九年の生まれである。『平成新修旧華族家系大成』の中の人物は「青木田鶴子」であり、日記帳の筆者は「杉田鶴子」である。しかし、この二人が別人とは考えにくい。苗字の違いには何かしらの事情が介在しているのかもしれないが、僕の中で日記の筆者・杉田鶴子という少女が、青木家の系譜の中にしっかりと確定づけられた。地図の一点にピンを止めることができた。  早速コピーを取ってもらうことにした。複写申請書を記入するにも女性職員に尋ねながらで、申請書を提出してからコピーを手にするまで十五分待たねばならなかったが、目的に到達できた満足感で苦にならなかった。  せっかく来たので、「ウィキペディア・青木周蔵」の中で参考文献として取り上げられていた『歴史読本』二○一三年十月号の「特集:華族 近代日本を彩った名家の実像」の記事も閲覧しておきたかった。閲覧申請をした三十分後にその雑誌を受け取ったが、内容がまったく違っている。確かめてみると、十月号を申請したはずだったのに、来ていたのは八月号だった。僕が間違ったのだろうか。訝しい気持ちで申請し直し、再び三十分待って雑誌を受け取り、複写申請して十五分待ってコピーを受け取った。  国立国会図書館を出ると、もう日はとっぷりと暮れていた。帰りの新幹線の中では一仕事終えた充足を感じていた。津久見に新幹線代を請求するわけにもいかないだろうな、車窓に流れる街の灯りを眺めながらぼんやりと考えていた。  その日のうちに杉田鶴子が青木梅三郎の娘であると判明したことを津久見に報告した。詳細については金曜日に会って話をすることになった。僕の方から出向くと言ったのだが、津久見の方が僕の家に来てくれることになった。明日もう一度県立図書館に出向いて、追加の調査をしておこうと思った。
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