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金曜日、午後八時過ぎになって津久見が家にやって来た。疲れた様子だった。ショートフィルム製作の準備に追われているのかもしれない。
「夕飯は食ったのか?」
と尋ねると、
「ああ。済ませてきた」
と答えた。
「ビールでも飲むか?」
「いや、今日の話はしらふで聞きたい」
「じゃあ、コーヒーでも淹れてくるよ。その間、これでも見ていてくれ」
僕は国立国会図書館でとった『平成新修旧華族家系大成』の青木家の系譜のコピーを津久見の前に置いた。
コーヒーをマグカップに注いで戻ると、
「成瀬、ありがとう。これで杉田鶴子という人物の素性について確定することができた。自信を持って作品を撮ることができる」
と礼を言ってくれた。僕はコーヒーを一口啜ってから調べたことを津久見に報告した。
「まず、この日記が書かれた年と田鶴子の年齢についてだけれど、日記が書かれた年の可能性は、暦の関係から、大正八年と大正十三年に絞られる。大正八年に書かれたとすると、田鶴子は明治三十九年の生まれだから当時十三歳ということになる。日記の内容から考えて、まあ妥当な年齢だ。これが大正十三年だとしたら田鶴子は十八歳で、日記の内容が幼なすぎる。この日記は大正八年の七月二十日から九月十日までの間に女子学習院の生徒だった、十三歳の杉田鶴子が書いたものと考えていいと思う。大正八年は一九一九年だ。今からちょうど百年前になる」
「わかった。そして『杉田鶴子』と日記帳の表紙に名前の書かれている人物が青木周蔵の養子である青木梅三郎という人物の娘であることもわかった。俺が成瀬に求めていたことはそこまでで充分だ。だが、どうして田鶴子は『青木田鶴子』と署名せず『杉田鶴子』と署名しているんだ?」
「残念ながら、なぜ『杉田鶴子』であるのか、その理由は明確にできなかった。調べ物好きとして忸怩たるものがある。すまん。ただ『大正人名辞典』(日本図書センター)を調べていて面白いことを発見した。青木梅三郎の実父は杉孫七郎という人物だ。長州出身で藩校・明倫館に学び、吉田松陰にも師事している。幕末には長州藩の参謀を務め、明治政府においてはおもに宮内省の官僚として活躍し皇太后宮大夫にまで任じられ、枢密院顧問官も務めている。青木周蔵と同じく子爵の爵位を授けられている。昔はおおらかなものだ。『大正人名辞典』にはその人物の住所や電話番号まで掲載されている。この杉孫七郎の住所は『東京府麹町区平河町五ノ二』とある。今の『千代田区平河町』にあたる。そして青木梅三郎の住所もまったく同じなんだ。杉孫七郎の後を継いだのは次男の杉竹二郎という人物だ。名前からの想像に過ぎないが、長男に杉松太郎という人物がいて、松太郎は若くして死んでしまったんじゃないだろうか。そしてこの竹二郎には『七郎』『長介』『彦吉』『鍾吉』『英子』『直子』などの子供がいた。このうちの『英子』は田鶴子の日記にもたびたび登場しているよな。那須の青木別邸にも一緒に来ている。日記の中に『本宅の英子さん』と書かれているところもある。田鶴子と英子は従姉妹にあたる。そこから推測するに、青木梅三郎の一家は、杉孫七郎の屋敷の同じ敷地の中に家を構えて生活していたということではないだろうか。田鶴子が頻繁に『英子さん』と行き来しているのもそのためだろう。つまり、田鶴子は父の実家である杉家の生活環境の中にあったと考えられる。ちなみに『大正人名辞典』には青木周蔵の東京の家の住所も掲載されている。『麹町区上二番町十五』だ。青木別邸の中に往時の写真が掲げられているコーナーがあるが、この『麹町区上二番町十五』の家の写真もある。西洋建築の大豪邸だ。この大豪邸は青木別邸と同じく松ケ崎萬長が設計している。
今回の調査は『ウィキペディア・青木周蔵』の『養子の青木梅三郎は杉孫七郎(皇太后宮大夫等を歴任)の三男(テルと周蔵の離婚にともない、青木家の家督相続人として梅三郎が養子に入った)』という記事を端緒にした。非常に有効な情報で、この情報がなければ今回の調査は成り立たなかったか、長く時間がかかったと思う。ただ若干誤解を招きやすい記事だったんだ。
周蔵と青木テルの離婚問題は明治七年、周蔵三十一歳のころの出来事で、慰謝料の額をめぐり二、三年紛糾したようなんだ。正式な離婚がいつなのか正確にはわからないが、明治十年の四月ごろらしい。周蔵は三十四歳。明治十年の三月二十七日には周蔵はエリザベートと結婚している。青木(杉)梅三郎は明治六年生まれだから、この年は四歳だ。四歳で養子に入るのは考えやすいだろう? でも違うんだ。杉梅三郎が青木周蔵の養子に入ったのは、正確には青木家の相続者に選ばれたのは梅三郎が四十一歳の時だった。
青木周蔵は長州の名家である青木家に婿養子の形で入りながら、青木家の血筋を引くテルを離縁してエリザベートと結婚してしまった。青木家を継承しなければならないが、家系に外国人の血が入ることを青木家が望まなかった。『歴史読本』二〇一三年十月号の記事によれば、青木家の家族会議で、エリザベートとの間に生まれたハナには婿を取らぬこと、継承者は男子とすることが取り決められたらしい。周蔵は実弟である三浦泰輔の長男である直介を養子として迎え入れている。明治三十七年、周蔵六十一歳の時だ。ちなみに三浦泰輔はヱビス・ビールの社長などを務めた人物だ。それが、周蔵が没する五か月ほど前の大正二年九月ごろ、周蔵は直介を離縁している。理由はよくわかっていない。周蔵は大正三年二月十六日に他界するが、梅三郎が青木家の家督相続者に決定するのはその年の三月三十一日なんだ。
なぜ杉梅三郎が家督相続者として選ばれたのかも明らかじゃない。水沢周氏の評伝『青木周蔵』には、明治二十六年に井上馨がドイツにいる青木周蔵に、議会対策の愚痴をこぼしたような手紙を、ちょうど渡欧した山田顕義の息子と杉梅三郎に託すという記述があって、周蔵と梅三郎とのほのかな交流が見出だされる。でも家督相続者に選ばれることになったのは、同じ長州出身である杉孫七郎と周蔵との関係にあるんだろう。
こうして杉梅三郎は大正三年、四十一歳にして青木家の家督相続者になるが、その時梅三郎にはすでに妻と四男二女の子供がいた。
田鶴子から考えれば、田鶴子は父・杉梅三郎と母・文子の二番目の子供であり長女として杉家に生まれて、杉田鶴子として育ち、父・梅三郎が青木家相続者となった時も杉田鶴子として育っていたということだ。そして手続き上の問題かどうかはわからないが、杉田鶴子は大正八年においてもそのまま杉田鶴子を名乗っていたということなのだと思う」
「よく調べたな、成瀬!」
「四度の飯より好きなものだからな」
津久見の驚きと敬意のまなざしに僕は充分な優越感と満足を感じた。
「まだ続きがあるんだ。田鶴子はやはり女子学習院を出ていた。十三歳だと普通の学制で考えると高等女学校の二年生にあたる。その後、コピーにある通り吉岡範武という人と結婚している。この人は明治二十二年の生まれだから田鶴子よりは七歳年上ということになる。外交官として活躍したようだ。東京帝国大学法学部を卒業して外務省勤務のあとカンボジア大使、バチカン大使を歴任している」
「ということは、田鶴子も大使夫人としてカンボジアやバチカンに暮らしたということか」「だろうな。吉岡家が暮らしたのは渋谷区千駄ヶ谷だ。吉岡夫妻は、範和、範行、範英という三人の男子に恵まれた。次男の範行氏はホテル・ニューグランドの社長を務めている」
津久見はため息を一つ吐いて、思い出したようにマグカップの中で冷えたコーヒーを口に含んだ。
「我らが田鶴子は典型的な上流階級の一生を過ごしたということか」
「まあ、そうだな。経歴を見る限りでは」
津久見はマグカップを脇にのけて少し居住まいを正して、
「成瀬、ありがとう。改めて礼を言うよ。短い時間だったのに、よくここまで調べてくれた。魂消たよ。成瀬の努力を無駄にしないように、いい作品を撮るよ」
「好きなことだからやったまでさ。あとはまかせるよ」
たくさん話をしてのどが渇いてしまった。冷めたコーヒーを淹れかえた。
「そうだ、日記帳を返さなければならないな。撮影にも使うんだろう?」
僕はテーブルに乗せたままにしてあった杉田鶴子の日記帳を津久見に手渡した。ちょっとだけさみしい気持ちが過ぎった。
「そういえば、日記の中から撮影に利用したい面白い箇所があるって言ってなかったっけ?」
僕が尋ねると、初めは何のことやら理解しかねるような顔をしていたが、すぐさま表情に意志が漲った。
「そのことなんだ」
津久見は不敵な笑いを浮かべて話し出した。
「日記の中で、那須を離れる前日に、子どもたちがひと夏の思い出を形見として残すために思い出の品々を文箱に入れて翌檜(あすなろ)の木の根元に埋めるという箇所があったろう。この日記帳の八月二十七日の記述だ。」
津久見は杉田鶴子の日記帳の八月二十七日のところを開いて僕に見せた。
「それを掘り起こして発見できたなら、すごい話題になると思わないか。この日記帳はお前の言う通り大正八年の物だろう。子どもたちが埋めた思い出の品々が百年の眠りから覚めて現れる。すごいドラマじゃないか」
「日記のあの部分は俺も気になっていた。しかし、津久見、考えてもみろ、あの子どもたちはおそらく翌年も青木別邸に来ただろう。その時に思い出の品を掘り出したに違いないさ」
「いや、待て。タイムカプセルを一年で掘り出して何が面白い。たぶん翌年は思い出の品々を埋めたことを話題にはしただろう。しかし、何年か経つうちに埋めたことを忘れたり、子どもたちの生活環境に変化があったりして、掘り出しそびれてそのままになっているということだって考えられる」
「津久見、お前まさか仕込みをしようっていうんじゃないだろうな?」
自分の声に怒気がはらんでいることに自分で驚いた。
「落ち着け、成瀬。やらせや仕込みは絶対にしないのが俺の流儀だ。倫理的なこともあるが、それをやるとリアリティが失われる。掘ってみて何も出てこなければ、それはそれで作品を作り変えればいい、というか、何か出てきたらもうけものという話だ。何も出てこなくても杉田鶴子の日記を前面に押し出してストーリーを展開してゆくということに変更はない」
それからわずかの雑談の後、津久見はマグカップのコーヒーを飲み干して帰って行った。玄関を出て、津久見の乗ってきたステーションワゴンのところまで見送った。冷気に満ちた夜の闇に赤いテールランプが呑み込まれていった。翌檜の根元から思い出の品を掘り出す場面の撮影は日曜日の朝に行うという。僕は津久見の言葉の中に危うさを感じていた。
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