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期末テストの最終日は月曜日だった。僕は試験の次の授業時間には答案を返却することを自分に課している。教員になって間もない頃、先輩教員から「答案は熱いうちに返せ」と指導され、それを今もって続けているのだ。採点を終えて校舎を出ると、午後八時を回っていた。
「フィルム工房TSUKUMI」はシャッター街の一角の空き店舗を借りている。一階が事務所で、二階がスタジオになっている。近くまで行ってみるとまだ一階に灯りがともっていた。津久見がまだ仕事をしている。僕は近くのコンビニでLサイズのホットコーヒーを二つとパンを買い込み、車を駐車場に入れて事務所に向かった。
ドアをノックすると、「おう」と返事をして津久見が迎え入れてくれ、合成皮革のソファを勧めてくれた。コーヒーとパンを差し出す。
「ありがとう。腹空いていたんだ。助かるよ」
と喜んでくれた。
「俺も今まで学校にいた。期末テストの採点をしていたんだ。俺が一所懸命教えているのに、生徒はちっとも理解していなくて、いやになるよ」
「高校生なんてそんなもんだろ。俺なんか大学進学はしないと決めていたから、成績はひどかった。担任からずいぶん絞られた」
「今、授業で徒然草をやっているんだけど、助動詞をたくさん出題したんだ。古典を読解する上で助動詞は重要だし、逆に助動詞がわかるようになると古典が楽しくなる。だから助動詞の強化を心がけていたんだけど、出来はさっぱりさ。津久見、過去の助動詞の『き』と『けり』の違いって覚えてるか? 高校一年生の時にやったはずなんだけど」
津久見の顔にほんの少し警戒の色が浮かんで過ぎて行った。
「いや、俺は古典はからっきしだった」
「そうか。よく『き』は直接過去とか経験回想とか言われる。それに対して『けり』は間接過去とか伝聞回想と言われるんだ。例えば、『昔、男ありき』と言ったら、”昔男がいた。自分はその男を実際に見てその存在を知っている”ということを含意している。それに対して『昔、男ありけり』と言った場合は”昔男がいた。その男のことを実際には見ていないが、人の言葉や書物などによって、その男が存在していたことは確かだ”ということを含意しているんだ。徒然草っていうのは擬古文といって、室町時代に生きていた兼好法師が平安時代の文法に則って書いたものだ。同時代に使われている言葉は揺れていてあいまいなところが出てきてしまうのに比べると、徒然草の文章は文法の教科書を見ながら書いているようなものだから、文法的な間違いが少ない。その徒然草の中に『顔回も不幸なりき』という文がある。『き』が使われているということは、兼好法師が顔回の不幸を実際に知っていなければならないことになる。顔回は孔子の弟子だ。兼好法師から見れば何千年も前の人なのだから、兼好法師が実際の顔回を見るはずも会うはずもない。ここは『き』は間違いで『けり』を使って『顔回も不幸なりけり』としなければならないところだった。兼好法師でも『き』と『けり』の使い方を間違えているんだ」
「何が言いたいんだ、成瀬」
「兼好法師が間違うくらいだから、津久見が間違うのも仕方がないということだよ」
津久見はそこで息を吐いて、薄く苦笑いした。
「俺は古典がからっきしだが、嫁さんの方は古典に自信があったようなんだがな」
「俺が気になったのは八月二十七日の記事の『此夏の形見とて思ひある品を各々持ち寄りて文箱に納め翌檜の下に埋めにけり』という一文だった。筆者が直接に関わっているのであれば『けり』ではなくて『き』を使わなくてはならない。つまり『翌檜の下に埋めにき』となるべきなんだ。そこで日記の中に使われているすべての『き』と『けり』を調べたところ、筆者が使い方を間違っているのはこの一箇所だけなんだ。ちなみにこの日の記事の最後の一文『八時半に床につけり』の『けり』は『つく』という四段動詞の已然形『つけ』に完了の助動詞『り』の終止形が付いたものだから、過去の助動詞『けり』とは別物だ。この日の記事を書いたのが吉乃さんだとしたら、吉乃さんはこの最後の一文にひっぱられて、『けり』の文脈で文章を書いてしまったのかもしれないな。それで俺はこの日記が偽書ではないかと疑いだした。以前お前が言ったように、夏休みの日記の贋作を作ったところで市場価値は無だ。けれど、この日記の記述を利用して映画を作ろうとしていた津久見には贋作を作ることに利があった。
初めは日記帳一冊が丸ごと贋作であることを考えた。しかし、素性もわかっていない人物の日記を六十ページ分も、しかも古文で作り上げるのは無理があるし、それだけの労力を使うに相当する見返りがあるとも思えない。割に合わない。「梅林堂」という今は存在しない文房具店の日記帳を調達するのも困難だ。贋作を作るなら、もっと簡単な方法があったはずだ。だから、日記一冊を丸ごと贋作したとは考えられない。次に考えたのは、本来の日記帳の一部だけを改作した可能性だ。津久見としては日記の中に『此夏の形見とて思ひある品を各々持ち寄りて文箱に納め翌檜の木の下に埋めにけり我は千代紙の姉様人形を入れたり後に掘り出だすを樂しみとす』という記述を紛れ込ませればいいわけなのだから。
この日記帳は袋綴じされた三十丁の用紙が綴じられてできている。八月二十七日の記事はちょうど二十三丁めに書かれている。ページでいえば四十五、四十六ページとなる。四十五ページはちょうど一行めに八月二十七日の記事の一行めが書かれており、四十六ページめは八月二十八日の三行めで終わりになっている。この二十三丁め用紙を差し替えたということは考えられないだろうか? しかし、日記帳の綴じられた用紙は三十丁すべて揃っており、一丁の欠けもない。しかも三十丁めの最後から裏表紙の見返しにかけて、『去年と比べて大そうおもしろく拝見しました。書き方の字も文も大そう上手になりました。一日も病氣をなさらずよくお遊びのやうでした。ご兄弟とも大変仲よくしてよくお世話なすつた事はなによりよいことと存じます』という担任教師のコメントが朱墨で書かれている。しかも日記の記述は一日の記述が終わると一行の空きなく次の日の事柄が記述されている。各丁の左下には「梅林堂製」と印刷されている。
改作するためにはこの日記帳と同じ用紙が必要となるが、日記帳の中には余分な用紙はなかった。
ところが、まったく同じ日記帳があって、その日記帳には白紙の用紙があったらどうか?これを仮に日記帳Bとしよう。お前、あるいは吉乃さんは日記帳Bの和綴じをほどいて、何も書かれていない用紙を一丁取り出す。そして一丁分だけ偽造し、もとの日記帳の二十三丁めと差し替えて綴じ直した。筆跡を真似るのは難しそうだが、一丁のうちのすべての文章を改めるわけではない。改めるのは一丁二十四行のうちの二行半にすぎず、あとはもとのままの文章を書き写せばいい。
日記帳のコピーは取ってあると言ってたな。八月二十七日の記事が書かれている二十三丁めのコピーを下に置き、その上に何も書かれていない用紙をのせれば、この用紙は薄くて下の文字が透けて見えるから、透けて見える文字をなぞればもともとの筆者の文字と同じ文字を書くことができる。改作しなければならなかった部分にしても、別の箇所で使われている文字を拾ってその上に用紙を置いてなぞり書きすれば、それほど違和感のない一丁が出来上がることになる。吉乃さんは小道具なんかも作るんだろう? こんな作業はお手の物なんじゃないのか? そして改作した用紙をもとの日記帳に差し込んで再び綴じ合わせれば改作が完成する。津久見はこうして杉田鶴子の日記帳を偽造したのではないかい?」
真っ直ぐに僕の方を見つめて話を聞いていた津久見が口を開いた。
「かなわんな。国語の教師なんかに調査を頼むんじゃなかった。そこまで調べてくれとは頼んでいないぞ。お前から日記帳が二冊あるんじゃないかと言われた時はギョッとした。確かに日記帳は二冊あった。もう一冊は『杉多嘉子』と名前が書いてあった。田鶴子の妹だな。日記帳は表紙が違う以外は同じものなのだが、多嘉子の日記は半分くらいしか書いてなくて、白紙のページがたくさんあった。和綴じをほどいてそのうちの一枚を利用した。あとは成瀬の言ったとおりだ」
「日記帳の改作についてはわかった。だが、翌檜の木の下に埋められていた品物についてはわからなかった。津久見は翌檜の木の下から埋められていたお宝を掘り出すというパフォーマンスを映像に撮りたかったわけだ。それをインパクトあるものにするために日記帳の偽造までやった。
俺は津久見が仕込みをしているのだと考えていた。日記を改作し、その改作に合わせてお宝を掘り出して見せて衝撃を与えようとしているのだと想像していた。実際にはそうなのだろう? でもそれはあざとすぎる。俺はお前を止めようと思った。仮に仕込んだお宝が掘り出されたとしても、失笑を買うだけだ。それだから掘り出される前に翌檜の根元を観察していた。翌檜の根元に掘り返された形跡があるのじゃないかと思って。だが、最近掘り起こされたような土の不自然さは見当たらなかった。あの翌檜の木の下になぜお宝が本当に眠っていたのか、まだ俺はわかっていない。ただ、津久見の仕業ということだけは明らかだ。翌檜の木は二本並んでいたが、日記にはどちらの木の根元とも書いていない。それなのに津久見はお宝の埋めてある方を間違えずに選んでいる。それにあのお宝。トランプや水鉄砲や千代紙の姉様人形は本当に青木家の子どもたちが使っていたものなのか?」
津久見がゆっくりと間を置いて、厳かな口調で口を開いた。
「文箱の中の品物は、すべて本物だ。アンティーク・ショップで買ったものなんかじゃない」
僕は津久見を見据えた。しばらく言葉が出なかった。
「そうか。やっぱりそうなのか。何とはなし、あの品々は本物のような気がしていたよ」
沈黙が二人の間の空気の密度を高めた。今、自分たちの脳裏にある映像。それは互いが共有しているものなのか。言葉に出さずに確かめ合っていた。
先に口を開いたのは津久見だった。
「成瀬、お前も昔の荒れ放題だった頃の青木別邸に行ったことがあるのか?」
やっぱりそうか。
「ああ、あるんだ。中学校の頃、青木別邸は廃墟も同然で、ここらあたりの中学生の間では“金髪女の幽霊が出る”って噂が立っていた。それで俺も友達と見に行ったんだ。オレンジ色の金属のフェンスで囲ってあって、中には入れないようになっていたけれど、フェンス越しに見えた建物の姿は異様だった。ゴチック・ホラーの舞台にするにはうってつけだったな。その頃は携帯電話も普及していなかったが、もし今のようにSNSが盛んだったら、人が押し寄せて大変なことになっていたと思うよ」
「そうだった。俺たちの中学校では“西洋女の幽霊が出る”だった。その噂を聞いて怖いもの見たさで行ったのが最初だった。自分の家から一時間以上自転車を漕いで行ったよ。そして行ってみて驚いた。まったく別世界のもののような真っ白で美しい建物がそこにあった。歳月の凌辱に甘んじながらも、なお威厳と崇高さを宿している姿に感動した。同時に憤りも感じた。こんなに美しい建物がうち捨てられて廃墟のようになっていることが許せなかった。守るべき者が誰であるかを知らなかったが、誰かがこの建物を守らなければならないと思った。オレンジ色の金属のフェンスをこじ開けて中に入ってみた。当時は管理もひどく杜撰だった。扉代わりに打ち付けてあった厚板も、少し力を入れれば動かすことができた。俺は中に侵入してみた。建物の中は無残なものだった。見捨てられた廃屋そのものだった。床には多くの物品が飛び散り、ガラス片なども散乱していた。調度類は荒らされ、食器などのめぼしいものは盗まれたと聞いた。書籍なども床に散らばり、踏みつけられて靴跡が捺(お)されていた。広間だったと思われる空間は床板が剝き出しになって、誰か不審者が入り込んで焚き火でもしたのだろうか、直径一メートルくらいの円い焼け焦げの跡があって床が抜けていた。よく火事にならなかったもんだ。理由のわからない怒りを宿して中学二年の俺は荒れすさんだ青木別邸から出た。その時、邸内に散らばっていたいくつかの品物をそこにあった文箱に入れて持ち出したんだ。トランプ、水鉄砲、姉様人形、お伽噺の本、そして二冊の日記。盗んだと言われればその通りだ。だが俺はこの美しい建物がこれ以上凌辱されることに耐えられない気持ちだった。かつての華やかな生活の名残を救い出してやるような気持ちだったんだ。
青木別邸から救い出した品々を入れた文箱を自転車のカゴに入れて暗くなった道を帰った。くやしい気持ちが心の奥からどんどん湧いてくるのを感じた。
文箱に入れた品々はいったん俺の部屋に置いておいた。しかし、俺はこれらの品物を盗んだわけではなかった。やはり返そうと思った。だが、元通りに戻せばこれらの品物は再び凌辱されるだけだ。次の週、俺はもう一度青木別邸に行き、人のいないのを見計らって、正面に二本並んで植えてあった翌檜の木のうちの東の木の根元に穴を掘って文箱ごと埋めた。たぶん翌檜の木を墓石代わりに考えていたんだと思う。ただ二冊の日記は埋めずに残しておいた。あとで読みたいという気持ちもあったが、人の手で書かれたものだと思うと埋める気になれなかった。
成瀬だったら、“虚無に捧げる供物”は知っているよな?」
「ヴァレリーか? たしか堀口大學の『月下の一群』だったよな」
「そうだ。ヴァレリーの『失われた酒』という詩の中の一節だ。その頃の俺が“虚無に捧げる供物”という言葉も意味も知っていた訳ではない。高校三年になって読んだ『月下の一群』の中でこの言葉を知った時、青木別邸の品々を文箱に詰めて翌檜の木の根元に埋めた中学二年の自分の気持ちはこれだったと悟った。
俺は青木別邸はそのまま朽ち果てる運命だと想像していた。だから改修、復元されたと知った時は嬉しかったよ。改修された青木別邸を見た時、あの建物はやはりこんなにも崇高で美しいものだったのだと再び感動した。青木別邸が美しく蘇ったとするならば、翌檜の根元に眠っている品々も本来あるべき場所に戻して、永遠の住処(すみか)に行くべきだと思った。掘り出して、正直に訳を話して管理者に渡せば、喜ばれこそすれ非難されることはないだろう。盗みの時効はとっくの昔に切れている。けれどずっとその気になれないでいた。自分に思い入れのあるほど、管理者は埋めた品々を大切には扱ってくれない気がした。それと同時に、俺の中で、荒れすさみ廃墟も同然でありながらなお威厳と崇高さを失わずにいたフェンスに囲まれていた青木別邸は俺だけの青木別邸だった。それが美しく改修されてみんなの青木別邸になってしまったことに淋しさも感じていた。
そうしているうちに今度の企画が舞い込んだ。大正時代に別荘を訪れていた令嬢たちの埋めた思い出の品々が、カメラの前で掘り起こされる。それはフィルムに大きなインパクトを与えるもので、賞を獲得するのに近づける。そしてその品々は青木別邸の中で永遠に記念される。『百年間土の中に埋められていた』という物語をまとって。成瀬をだまそうとしたことはあやまるよ。申し訳ない。この通りだ」
津久見は深々と頭を下げた。僕も中学生の時に荒れ果てた青木別邸を見た衝撃が甦っていた。
「なるほどな。あの文箱が埋められたのは俺たちが中学二年の時か。三十二年も経っていたら掘り起こした形跡もそりゃあなくなるな。ところで津久見、伝え忘れていたが、田鶴子さんが亡くなったのは平成元年のことだ」
「何だって! それじゃ俺たちが中学生の時、田鶴子さんは存命だったのか」
「そうなるな。その頃はもちろん吉岡田鶴子という名前だったはずだ。田鶴子さんは明治三十九年生まれだから、平成元年では八十三歳だ。何らおかしいことはない」
「じゃあ、青木別邸が荒れ果てた状態になっていたことも、田鶴子さんは知っていたのだろうか?」
「その頃の青木別邸の所有者は、田鶴子さんの兄である重夫氏の妻・和子さんだった。田鶴子さんから見れば義理の姉にあたる。風の噂くらいでは知っていたのじゃないだろうか」「少女時代の夏、穏やかに過ごした那須の青木別邸での日々を思い出して、胸を痛めていたかもしれんな」
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