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佳純も一緒に、今夜はわたしの実家に泊まることにしていた。あの後お父さんは声もかけずに出かけてしまい、一緒に食べるはずだった夕飯にも戻ってこなかった。夕飯前にお母さんの携帯電話にはお父さんからのメールが何かしら届いていたようで、夕飯は三人で食べた。市販のタレで作る那須和牛のすき焼きだった。
「ああ、おいしい。さすがいいお肉ですね。とろけます」
「そう?東武で買ってきたの。いっぱい用意したからたくさん食べてね」
「春菊、おひたしで初めて食べました」
「あら、無理して食べなくてもいいのよ。佳純ちゃんが春菊苦手だって聞いたからすき焼きには入れなかったんだから」
「すき焼きの春菊は苦手なんですけど、このおひたしは平気です。むしろ好きです」
「あらよかった。これ今朝取れたものなのよ」
「栽培してるんですか?」
「私の実家でね。家庭用に作ってるのをもらってきたのよ」
「お母さんのご実家もこの近くなんですか?」
「そうね、車で二十分くらいかしらね。黒羽っていうところよ」
お母さんと佳純は、すき焼きの準備をしながらも話をして、すっかり打ち解けた雰囲気だった。
「娘がもう一人欲しかったから嬉しいわ」
お母さんが佳純に言う。
肉を味わいながら、お母さんの言葉がどの程度本心なのか考えた。娘がもう一人欲しかったなんて初めて聞く話だ。私が男の子を連れてきて交際相手だと紹介したら、もしかしたら「息子が欲しかった」と言ったかもしれない。
「そういえば、深山くん」
「えっ何急に?」
突然元カレの名前が出てわたしは慌てた。
「昨日結婚式だったみたいよ」
「へー」
最近わたしや佳純の周りでは結婚ラッシュで、高校や大学の友だち、会社の同期の結婚式に招かれる事が多い。二十五、六という年齢はもうそういう年頃なんだ。そして深山のことも、中学の友達が教えてくれて知っていた。特に強く思う事はなかった。どちらかといえば、よかったね、と思った。何かを言える立場じゃないことはわきまえているつもりだった。
深山と別れるとき、彼は栃木からわざわざ大阪までやってきた。別れ話に佳純も同席した。その時わたしの気持ちは完全に佳純に傾いていて、これからの佳純との日々を壊されたくないと一人殺気立っていた。深山はわたしの気持ちを悟ったのか、終始冷静だった。クールなところが彼の長所でもあったけれど、その時のわたしにはそれさえかっこつけているみたいに思えて不満だった。きっと本当は、煮えたぎる思いを喉元で抑えて平静を装っていたんだと、今なら思える。深山が去った後、「彼、大人だね」と佳純が呟いた。相手の気持ちを汲み取ってそう言える佳純も、大人だった。わたし一人が子どもだったんだ。
わたしは「へー」以外何も言えず、春菊のおひたしに箸を伸ばした。わたしもすき焼きの春菊は苦手だ。苦味が強くえぐみとまで感じた。けれどもこのおひたしでは苦味が上品な風味に変わっていておいしかった。
女三人でのすき焼きは、具材をたくさん残して終わった。普段ならわたしより多く食べる佳純が、わたしと同じくらいしか食べなかった。遠慮ではなく、緊張のせいだろう。お母さんとは打ち解けているようで、まだそうじゃない。一日では、気の置けない仲にはなれない。
「ちょっと、話しづらいかもしれないけど、佳純ちゃんに訊いていい?」
洗い物をシンクに溜め、片付けたテーブルでお茶を飲みながらお母さんが尋ねた。
「何でも訊いて下さい。どんなことでも答えますんで」
「言いづらかったら答えなくていいし、気を悪くしたら申し訳ないんだけど。佳純ちゃんは、最初から女の人が好きだったの?」
わたしがレズビアンであることを打ち明けた相手はほとんどいない。佳純だって同じだ。大学時代の共通の友人が何人か、それ以外は片手で足りるほどだ。それでも、この質問は初めてじゃない。わたしにはしてこないのは、お母さんがわたしと元カレとのことを知っているからだ。わたしは、男の人に夢中だった時期が確かにあった。
「自分でもよくわからないんですけど、たぶん、最初からです。歩弥さんと出会う前は普通に男の人とも何人かお付き合いしたんですけど、好きとかそういう感情は湧かなかったんです。それでもいつかは誰か好きな男子ができて結婚するんかなと考えていたんですけど、しっくりこなくて。お嫁さんになりたいとか女子のおしゃべり聞いても、憧れよりはむしろそんなのやだなって思ったりしてたんです。
逆に私、可愛い女の子に目がなかったんです。小学生、いや保育園通ってた頃からですかね。いかにも女の子っていう感じの女の子が好きで。こう、笑顔が明るくて、気遣いができて、先頭に立ったりしない感じですかね。独り占めしたくなるんです。何人もじゃなくて、その時々で特定の一人だけなんですけれど。その子が他の子と遊んでいたりすると、相手が男子でも女子でも嫌な気分になって。でもそれが恋愛感情なんだってはっきり気づいたのは歩弥さんと出会って初めてなんです。歩弥さんと大学で知り合って、まあ一目惚れですね。でも友だち付き合いしているうちに遠距離恋愛の相談とかもしてくれて、自分が歩弥さんの恋人になりたいっていう気持ちが自分の中にあふれて。
歩弥さんが私を受け入れてくれたことは信じられませんでした。責任は感じています。歩弥さんは、たぶん私がいなければ同性愛者にはならなかったと思うんです」
わたしもお母さんも、黙って聞いていた。佳純の話だけでは、まるでわたしは佳純に引き込まれたように聞こえる。けれどもそうじゃない。わたしだって、佳純に惹かれていた。そうでなければ、あの日の佳純からの愛の告白を喜べたりはしなかった。
わたしがお母さんに佳純とのことを正直に打ち明けたのは、就職の内定が出て、卒業後も大阪で暮らすことを決めた後だった。これからの仕事も住む場所も決めてから、実は、と正直な思いを告げた。
「あなたがそうしたいなら、したらいいわ。お母さんは応援する」
その時お母さんは、わたしの気持ちを受け止めてくれた。
「お父さんには話すの?」そう訊かれたわたしは「まだ言えない。でもいつかちゃんとわたしから話す」と約束した。それから三年も経ってしまった。
佳純が、再び口を開いた。
「さっき、お父さんが出て行ってしまった時、やっぱりとんでもないことをしてしまったんだなって思ったんです。後悔とかじゃないんですけど。家族のつながりににひびをいれてしまったみたいで」
「心配しなくても大丈夫よ。あの人、色々言われると頭の中がぐちゃぐちゃになって何も言えなくなっちゃんうだけど、それがすっきり整理されると意外と物分かりはいいから」
お母さんの言葉に佳純は「ありがとうございます」と答え、お茶を飲み干した。
お父さんはわたしが入浴中に帰ってきて、そのまま寝室にこもってしまった。夕飯は外で済ませたらしい。
「せっかくのお肉なのにね」とわたしがお母さんに言うと、
「ほんと、せっかく娘二人との夕飯なのにね」とお母さんがお肉に目を落とした。
「ねえ、ちょっと庭に出てみようよ」
お父さんが寝室に引きこもったこの家で、テレビを観たりするのは実の娘でも気が引けた。佳純とわたしははわたしの部屋に布団を並べてそれぞれパソコンを前にしたり日記を書いたりしていた。書きながらわたしは、ぜひ見せたいものがあったのを思い出した。
「庭?」佳純は怪訝そうだった。
「うん、すぐだから」
佳純の「いいよ」を聞く前に、わたしは寝間着の上にコートを羽織り靴下を履いた。佳純もそれに倣って、二人で玄関から外に出た。見せたいものはすでにそこにあった。
「うわ、すごい星」
佳純の驚く声にわたしは頬を緩める。玄関から数歩出ただけで、そこには満天の星が広がっていた。天の川の周囲にきらめく夏の星、秋の少し寂しい部分。もっと夜が更ければ、華やかな冬の星々が輝きを放つ。裏手の方が暗いのでそちらに回る。そこからは北の夜空が一望できた。
「大阪とはえらい違いやなあ」
星空を見回しながら佳純が感嘆の声をあげる。
佳純は普段、標準語しか使わない。大阪弁を使うときは、わざとだ。だから佳純の大阪弁はちょっとにせものっぽく聞こえる。
「ほんまにそうやなあ」
わたしも大阪弁の真似をする。
「歩弥は地元なんだから無理しないで栃木弁使うてもええんよ」
「わたしが栃木弁なんて使うわけあんめ」
「なんや、それこそ栃木弁やないか」
「栃木弁じゃねーべよ。標準語に決まってっぺ標準語に」
「栃木の標準語ではあの星は何て名前なの?」
佳純が指したのは、こと座の一等星だった。何か意図があってその星を選んだわけではないと思う。それでもその星は、今のわたしたちには意味ある星だった。
「ベガ。または、織姫星」
「あれが織姫」
佳純が指を下ろす。
「じゃあ彦星は?」
「あの、天の川の対岸の星」
今度はわたしが指す。
「彦星の方が小さく見える」
「うん。織姫の方が明るいんだよ」
「逆じゃないんだね」
「言われてみればそうだね。昔なんて今より男の人の方が強かったはずなのにね」
「えっ天の川って肉眼で見えるの?」
脈絡なく佳純が天の川を指しながら腕を上下に振る。南から北へ、星の川は広がっている。
「今それに驚くの遅いよ。さっきから見えてるでしょ」
「初めて見たかも」
「さっきから見えていたよ」
「そうじゃなくて、人生で」
あまりにも簡単に現れたその言葉を、心の中で転がす。わたしはこれまで、何度「人生で初めて」を意識しただろうか。今日、人生で初めて、恋人を恋人として実家に招いた。人生で初めて、結婚の話を両親にした。人生で初めては、その庭先にも広がっていた。
しばらくは何も言わずにそれぞれ星を見上げていた。流れ星が見えないかなと期待していたけれど、結局見えなかった。
わたしはこの先、何度の「人生で初めて」を経験するだろうか。その隣にはいつも、佳純がいてくれるだろうか。
「寒くなってきたね」わたしが囁く。
「うん、そろそろ戻ろうか」最愛の人が応える。
そうでありますようにと、わたしは彼女の冷たい手を握った。
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