【月曜日】

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 季節は桜が散り始めるころ。始業式。高校1年生の彼は、胸を躍らせていた。初めての登校に、ではない。 「やばい、場所がわからない」  迷子になっていた。この物語の主人公、石松健太は迷子になっていた。学校の場所がわからずに。 「なんてこった」  本来ならば、こんなところで迷子になることもなく、むしろ最愛の幼馴染と一緒に仲良く手をつなぎ、桜舞い散る明るい道を朗らかに登校しているはずだったのに! 「ごめん、健太、引越すことになったから」    父親のそのひとことで、健太の夢は藻屑と散り果てた。  その後すぐに引越し先で学校を探し、編入試験を受け、合格したのはいいのだが。 「場所がわからなーい!」  石松健太は叫んでいた。  かなわぬ自分の望みに、恨みをこめて。最愛の幼馴染とともに登校できぬ怒りをこめて。  周囲が彼のことを不審な目で見ていることに、彼は気づかない。だって彼には、ひとりの女の子しか見えていないからだ。  坪倉ひかり。それが、彼の愛する人の名前だ。彼の幼馴染で、同じ幼稚園、小学校、中学校、ともに過ごしてきた最愛の人。そんな彼女とこんな形で別れることになってしまうなんて。こんな残酷な運命があるだろうか。 ちなみに、ふたりは付き合っているわけではない。健太はなかなかひかりに告白ができずにいたのだ。    健太は何度も告白にチャレンジしてみたが、その途中にいつも鳥の糞が降ってきたり、雷が落ちたりと多くの妨害を受けてきた。  引越しが決まり、健太はあわてて、再度ひかりに告白しようと、ひかりを近所の公園に呼び出したが、 「あの、ひかり、俺、ひかりのことがす、す、す、」 といっていたら、3時間が過ぎ、ひかりはとっくの昔に、健太を置いてひとり、家に帰ってしまっていた。いつの間にひかりがいなくなったのか、健太にはまったくわからなかった。  3つ隣の街だから頑張れば通えないこともないとも思ったが、やはりそうするべきだった。  そんなことを思いながら、彼は野球部で鍛えた脚力を武器に、街を右往左往していた。 学校を探して。 「確か、こっちだったような」  ちなみに彼は極度の方向音痴だ。  彼は学校と思われ方向に向かって全力で走っていった。とにかく走り続けるしかない。そうすればいつか、必ず学校にたどり着けるはずだ、と彼は思っていた。  手元のスマホで住所を調べるといった頭は彼にはない。  彼は至極単純に、わかりやすく言うのであれば、馬鹿だった。  彼は、ひかり馬鹿そのものだった。そのひかりと離れ離れになってしまったことによって、さらにその馬鹿に拍車がかかっていった。もうなにも手につかない。そんな状況だった。そもそも健太からしてみれば今日まじめに登校しようとしているだけでも、賞賛にあたいする行為だった。  彼は十字路で立ち止まる。右に行くか、左に行くか。それが問題だ。  彼は意を決し、左に曲がり、通りを全速力で走っていった。次の角は、右。彼は瞬時にそう判断し、速度を落とさぬまま、右に曲がる。  そのとき。 「ああっ!!」  何かにぶつかってしまった!倒れこんだ瞬間、健太は衝撃に備えるが、いつまでたっても、衝撃がこなかった。むしろ、前に倒れこんだ健太のからだには、地面とかけはなれたとてもやわらかいものが当たった。 「いったーい!」  健太のすぐ目の前に、ひとりの女がいた。今にも顔があたりそうな距離。女の鼻が、唇が、そして瞳が、健太のすぐ目の前にあった。  その女と目が合った。まっすぐに自分を見つめるその瞳に、健太はしばし身動きができなくなってしまった。そして手にふれている感触が、ふにふにとやわらかい。そのやわらかさに、健太は思わず手をにぎにぎしてしまった。  あー、なんかいい、この感触!健太は思った。 「ねえ、ちょっと」  やわらかくて、ふにふにしていて。 「ねえ、ちょっと」  はー、ずっとさわってたい。 「いいかげんにしてよ!」  目の前の女はそういって、健太を思い切り、蹴り上げた。  蹴り上げた足が健太のナイスなところにあたり、それに健太は立ち上がることもできず、しばしば悶絶した。  はっと我に返り、健太は自分を蹴りつけてきた人物を見上げた。後光のさす中、仁王立ちで、女は立っていた。  そのまぶしさに、健太は思わず目を覆う。 「どこさわってんのよ!」  女の怒りをこめた低声ボイスが、しゃがみこんだ健太にぐさりと突き刺さる。 「最低」  そういうと、女の手はきれいな放物線を描き、健太に頬に命中した。そして、女はカバンを拾い、すたすたと健太が来たほうへと歩き去っていった。  頬を押さえながら、健太は顔をあげたが、女はすでに遥か彼方に消えていた。  健太は思った。あのやわらかいのは、なんだったんだろう、と。そんなことも気がつかない男なのだ、こいつは。  健太はなんとか、ギリギリセーフで高校にたどり着くことができた。急いでクラスを確認し、教室に走りこんでいくと、すでに多くの生徒が教室に待機し、おしゃべりをしていた。みんな初めましてなのだろうか。それとも、中学が同じなどといった知り合いが多いのだろうか。人間関係がまったく把握できず、健太は少し、教室に入るのをためらったが、後方のとびらに張り出された席順を確認すると、勇気を出して、教室に一歩進み出た。みんなは健太の存在に気がつかず、おしゃべりを続けていた。  健太が教室に入るとすぐに、始業のチャイムが鳴った。それを聞いて、みんなは各々の席に散り散りになっていった。健太はその波に乗って、いい感じに、自分の席に座ることができた。 「おはよう」  健太の後ろの席に座っていた男が、健太の肩をたたき、健太に声をかけた。 「結構ギリギリに来たね」  痛いところを突かれたが、健太は何とかごまかそうと、 「ああ」とだけ、返事した。 「俺、宇野勇介」  うしろの席の男がそういって手を差し出した。 「石松健太」  そういって、健太は勇介の手を握った。 「よろしく」  健太が手を離すと、勇介はすぐに隣の席の女の子としゃべり始めた。  がらっと扉を開けて、担任が教室に入ってくる。 「みんな、おはよう」  そういった担任におはよーと生徒から声がとぶ。担任は教卓につくと、 「まずは挨拶からだ」  そういって、「えーっとじゃあ、相沢、号令かけてくれ」とひとりの生徒を指名した。 「はーい」 健太のすぐ前の席に座っていた、相沢と呼ばれた女が返事をし、号令をかけた。  どこかで聞き覚えが声だった。健太はふとそう思ったが、あまり深くは気にせずに、その号令に従った。 「着席」 「ありがとう、相沢さん。では今日からみなさんのクラスを、」  席につくと、担任がしゃべり始めた。  健太はそれをぼーっと聞き流していた。  自分の輝かしい高校生活に、ひかりがいないなんてありえない、そんなことを健太は考えていた。健太の頭の中には基本的にひかりのことしかなかった。  同じクラスになり、隣の席に座る。「健ちゃん」と呼ぶひかりの声が、今でも頭に響いてくる。去年まではいや、ほんの数ヶ月前までは隣の席にいたひかりが、今ここにいないなんて。  健太はまじめな顔をしながら、ずっと延々と、ひかりのことを考え続けた。  やっぱり、受かった同じ学校にいくべきだった。その考えが、健太の頭を支配していた。 「じゃあ、体育館に移動して」  担任のそのことばに、生徒たちが席を立ち始めた。健太はその動きに気がつかない。 「おーい、健太、行くぞ」  うしろの席の勇介が肩をたたいた。それにも、健太は気がつかない。ひかりのだけを考え続けていたからだ。 「あーっ!」という女のでかい叫び声を聞いて、やっと健太は我に返った。  健太はその声のでかさに、思わず眉をひそめた。そして、声のした方に目を向けると、  今朝の女だった。そこに、今朝のビンタ女が立っていた! 「あの変態野郎!」  女はそういいながら、びしっと真っ直ぐに健太を指差した。 「へっ?」  健太はその剣幕に思わず引けをとってしまう。 「なにしたの、お前」  勇介が健太にそう話しかけた。  女は相変わらず、変態といいながら、健太を指差していた。 「いや、今朝ちょっと、ぶつかって」 「ぶつかってえ」  健太のそのことばに、女がふつふつと怒りを沸かせているのがわかった。 「ぶつかっただけじゃないでしょ!」 「いや、ぶつかっただけだろう」  ピキッと、女のこめかみ部分から音がした。 「おい、大丈ぶ」  健太はもう1度、張り倒された。今回はいいところにきまり、健太は意識を飛ばした。   「おい、大丈夫かよ!」  そんな勇介の声は、健太の耳には届かない。 「あら、大丈夫?」  健太は目を覚ますと、保健室のベッドの上にいた。保健室の先生が健太に優しく声をかけた。 「大丈夫です」  健太はそういって、少し頭を回した。からだに異常はない。そのことだけ確認すると、健太はゆっくりと立ち上がった。少しだけからだがふらついた。  なかなかいいビンタだった。健太はそう思った。 「教室、戻れる?」 「はい」  そういって健太はひとり、保健室をあとにした。  ところで、ここは、どこだろうか。  教室までもどるのに、健太はさらに30分を費やした。  教室に戻ると、クラスメイトたちは帰りの準備をしていた。 「おお、戻ってきたか」  そう健太に声をかけたのは、朝の勇介だった。勇介の隣には、もうひとり別の男が。 「ぼく、丸尾浩二です」  男はそう健太に告げた。 「同じ中学だったんだ」  勇介は、浩二のことをそう健太に紹介した。 「久しぶりに会ってちょっと仲良くなった。中学のときはしゃべったこともなかったけどな」 「そうそう」  勇介と浩二のふたりはお互いに顔を見合わせ、うんうんとうなずいた。 「よろしく」  健太はそう浩二に挨拶をした。 「それより、石松くん」  浩二が瞳をキラキラさせながら、健太にそう話しかけた。 「あの相沢さんの胸をさわったって本当ですか」  あの相沢さん? 「相沢って誰?」 「相沢さんですよ、あの!」  浩二がそう指をさした先には、今朝のビンタ女が立っていた。 「あいつが相沢?」 「そうですよ!」  相沢もこちらに気がついたようだった。相沢から放たれる視線が、痛い。 「詳しく聞かせてもらえませんか」  浩二の瞳が相変わらずキラキラしている。 「さわり心地はどうでしたか?」 「どうって」  視線が痛い。相沢から放たれる視線は、まるでレーザーのように、健太のからだにばしばしと突き刺さる。 「また、今度にしよう」  健太はその視線に堪えられず、かばんを持って、ひとり教室をあとにした。 (まだ、ホームルーム終わってないのにな)  クラスメイトたちはそう思いながらも、静かに健太を見送った。  健太は迷子になりながらも何とか家に辿りつくと、さっそくひかりに連絡を入れた。 「今日、学校にいってきました」  しかし、何も反応がない。健太はそれに、ひとりため息をついた。ひかりには、引っ越してからも変わらず、毎日連絡を入れているが、それに返事がきたことは1度もなかった。それはいつものことといえばいつものことだったが、今回はメッセージが既読にすらならずにいた。 「これが未読スルーってやつか」  健太はそう小さくつぶやくと、スマホをにぎりしめ、ベッドに横になった。 「ひかり」  部屋にはぎっしりとひかりの写真が貼られていた。ひかりの優しいまなざしが健太のことを至るところから見つめていた。 「会いたいな」  その思いは、ひかりに届くのか。
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