詩と火

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「……なんだこれは」  書き上げたものを見て、書いた自分自身に問うた。 「こんな詩を書くつもりではなかったのだが……」    答えのようで答えではない言葉が出てきた。  私は詩を書くことが好きだ。  詩は素晴らしい。  一見すると散文とも言える短い言葉の並びの中に、人の心の中から溢れ出した感情が揺蕩っており、そこに激烈な、あるいは和やかな自然の息吹をも注ぎ込むことが出来るのだ。  詩は何でも出来る。  詩は自由だ。  だから、素晴らしい。  私はその素晴らしさに魅せられた者であり、自らも心の赴くままに詩を書いている者である。  重ねて言おう。  詩は自由だ。  ……だというのに、私は父の詩を書いていた。  こんなにも身近なものをモチーフにしてしまったのは何故なのか?  食卓にご馳走が並べられ「どれでも好きなものから食べなさい」と言われたのに、手近にあったからと適当なものを摘んで口に放り込んでしまったかのような感覚だった。  これに私は困惑した。  思わず感想を口に出してしまっていたくらいだ。本当にこんな詩をかこうとしていたのではないのだ。  常々私が書きたいと願い、そして実際に書き綴っている詩というのは、風光明媚なる自然の姿と、それを前にして自分が感じた何かを描写したものである。  例えば風が吹いたとする。  その風はどこから来たのか?  何を運んできたのか?  匂いはあったか?  葉は舞っていたか?  砂が飛んでいたか?  服の裾が翻ったか?  それを受けて人々はどう反応したか?  私はどう反応したか?  私の体はどう動いたか?  私は何を想ったか?  私の心はどう受け止めた?  そして、そうやって吹いてきた風は、これから一体どこへ行くのか?  ……などなど。頭に浮かんできたこのような様々な疑問に自らの答えを与え、それを並べて繋げ、詩とするのである。  あくまで私の方法論だが、私にとって詩とはこのようなものである。  つまりは、詩とは私である。  私は詩とそのように向き合っている。  いつでもそうだった。  どこでもそうだった。  この農場で慣れぬ仕事をしていても——日々繰り返される荒れた原野の開墾作業に勤しんでいても——それは変わらない——はずだった。  なのに、気づけば変わっていたようである。  この紙の上に現れたのは父であった。 「これはどういった心境の変化なのだろうか?」  私は鉛筆を傍らに置き、腕組みをして首を捻った。  暫くして、再び鉛筆を取った。 「書いてみるしかあるまい」  答えは私の中にある。  自然と向き合うのと同じだ。  心と向き合えば、自然と詩が紡がれる。  そういうものだ。  だから、私は書いた。
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