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良くない考えが頭を過ることがある。
雑念。
これはそういうものだと理解している。
繰り返される問い。
さながら絡まり遭うロープ。
解けぬ思考。
一体、こんなことをして何になるのか?
はっきり言うと、私は外仕事が苦手だ。
好きではないという程度の意味合いでだが。
得意ではない。と表現するべきか。
何にしてもそのような表現が出てくるということは、つまりはそういうことである。
そんな私が何故原野の開拓をするという父に付いてきたのか?
理由はある。
一つ目の理由だが、自然と接したかった。
身近に自然を感じ、それを己の目を通して、再び世界に放ちたかった。
それをしようと思っている。
それは行えている。
つまりは、そこは問題ではない。
二つ目の理由は、私が長男だからだ。
長男は親の仕事を手伝うべきである。
それが長男としての果たすべき責務である。
これも、別段問題視してはいない。
人は、自由に生きるべきであるというのは疑いようもない事実だが、それでも義理人情というものはある。
私は私を生んでくれた人に恩を返さなければなるまい。
御恩と奉公。
それは当然そうするべきであるのがものの道理というもの。
働きながら、詩を書く。
それは両立が可能な事柄である。
だから、何も問題はない。
そう思っていた。
そこで、ふと思う。
世が変わればこのような理屈はなくなるのだろうか? と。
親類への情よりも、自身の感情が優先される日が来るのだろうか? と。
木は、千年在るという。
人は、百年にも満たない。
人は、変わる生き物である。
ならば、変わっていくべきなのか。
このような感情はしがらみだとして捨て去るべきなのだろうか。
いや、捨て去るという言い方はあまりにも一方的過ぎるのではないか。
縛られぬ。と言うべきか。
このような感情に縛られぬようにする。
それこそが自由なのではないか?
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