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狗神 2
狗神 2
長い間の戒めであった鎖が外れた俺は、やっとこ樫の木から離れどこかへ向かうことにした。
しかし特別行きたい所がある訳でも、やりたいことがあった訳でもなかった俺は、暇潰しに世の常に倣い悪の道に走り出した。
食わなくても死ぬ事の無い俺は生活のためなどというつもりも無く、独り身の俺は誰かを養うためでも無く、
ただ搾取して搾取して搾取して、
略奪して略奪して略奪した。
意味などなかったし、あるいは暇潰しでさえなかったかもしれないが、その日その日やる事が無いし、一人で居るのも退屈なので山河にひとつ谷を増やしたり、森を焼き払ったり、一陣の風となって人里に降り畑を荒らしたりした。
小賢しい嫌がらせみたいな可愛いものだったが、人間達は俺を『狗神いぬがみ』と呼び恐れるようになった。獣の姿の俺は大きな犬とも熊ともつかない図体で荒れ狂うため、人間はなんだか得体のしれない俺に『狗神』という名前をつけて化け物として恐れた。恐れたが、排除する気にまではなれないらしく俺を罠にかける事も、強力な呪術師を寄越す事もなかった。
俺は色々な土地を渡り歩き、時折小悪党共と徒党を組んだり、またある土地では孤高の存在であったりした。そして人間達の暮らしを邪魔したり、そっと眺めたりして、どんな所ならずっと住んでみたいだろうかと考えた。
人間だけでなく、化け物にだって縄張りはあるし棲みやすい土地というものはある。俺には今まではあの樫の木の下が住み家だったのだ。あそこもそれなりに過ごしやすかったのだろう。
でも人間じゃあるまいし、ひとつところに腰を据えて暮らすなんて、なんかしがらんじゃうよなー。俺の性には合わないよな。
俺は人里を遥か下に眺めながら、こきこきと肩を鳴らした。
++++++++++
ひょいひょいと軽く山河を今日も越えていくと、今まで目に付かなかった山肌のやや奥まった箇所に小さな屋敷が建っているのに気がついた。こんな所にある屋敷なんて、きっと人間の屋敷では無いのだろう。俺は耳をぴんと立ててそばだてた。誰か住んでるのか?
俺はふいに、なんともなしに、その屋敷に興味を引かれた。そろそろと多少古臭い感のある屋敷の門へと向かっていく。
開けっ放しの不用心な門をくぐり、続いている石の嵌め込まれた小路をゆくと、小さな庭先と縁側に出た。
庭の端っこにある岩をくりぬいた手水には赤い小さな金魚が数匹泳いでいる。小さな世界をすいすいと小気味良く泳いでいるのを見て、腹の足しにもならないし、いたぶるのにもひ弱過ぎて張り合いにもならないが、と前足を岩にかけ首を突っ込もうとすると、
「犬」
ふと縁側から声がかかった。人が居たのに気付かなかったか、と振り返ると縁側からこちらをじっと見ている人間が居た。
瞬間、身体を火花のようなものが駆け抜けた。
耳から尻尾までぴんと張って、俺は石のように固まってしまった。
「お前、そこには金魚が居るからだめだよ。水が欲しいなら持って来てあげる」
粋に着物を着こなして縁側に横座りしている、男とも女ともつかない美人はゆっくりした仕草で立ち上がると奥へ消えていく。そのうちひらべったい皿を手に戻って来ると縁側から上がりふちの石に腕を下ろした。袖から覗く白い腕が眩しい。
「おいで。こっちなら飲んでもいいよ」
飴色の柔らかそうな髪が肩から落ちてなびくのを俺は眺め、なんだか身体がむずむずとするのを感じる。なんだこの奇妙な気持ちは。俺は戸惑いながらも皿に近付いて鼻先を突っ込んだ。
長い舌ですくうと冷たい水はあっという間に無くなり、物欲しそうに皿を舐めていると縁側から俺を観察していた人間の腕が再び伸びてきた。鼻先に触れられて思わず身構える。
「もっと欲しい?お腹が空いてるのかな…」
俺が言葉を解するとは思っていないのだろう、独り言を呟く赤い唇を俺はぼうっとしながら見上げた。さっきの金魚を思い起こす。整った小さな顔は俺の気持ちを読み解こうとして、俺の尻尾やら顔をじっと見詰めてくれている。
俺は急に胸が苦しくなりはじめた。なんなのだ、久々に綺麗な水をすすったから腹の具合が悪くなったのだろうか。俺が低く唸ると、
「やっぱりお腹が空いてるんかな。八朔(はっさく)ー」
と美人は室内に向かって声をかけた。やがて奥から足音が近付いてくる。顔を見せたのは小柄なガキだった。
裾の短い銘仙の着物を着たこじゃれたガキで、果たして奴は俺の姿を目にすると見るからにびくりと肩を揺らして凍り付いた。
「うわでかっ!なんですかそれ!」
「お腹が空いてるみたいなんだよ、なにか食べそうなものがあるかねえ」
「ええーっ餌付けでもするんですか?なんか凶暴そうですよ……」
「そうかなあ」
ガキは意気地がなかったが、目は良いようで俺を遠巻きに怖々と眺めていたが、やがて奥に消え饅頭を乗せたでかい皿を持って来た。
肉とか魚とか無いのかよ、と俺は内心毒づいたがこの際細かい事は言うまいと納得した。ガキはその皿を主人らしき縁側の人間に渡すとさささ、と畳を滑るように即座に奥間に戻って離れた所から俺と美人を窺う。
「環(たまき)さん、それ、狗神じゃないんですかね、里の皆が噂してる犬みたいな化け物ってやつ。きっとそうですよ」
ガキは目だけでなく勘も鋭いようだったが、主人を守る忠義は持ち合わせていないらしい、既に自分だけ安全圏に逃げて声を張り上げている。
そんな人望の薄い環と呼ばれた美人は、ガキの言葉が聞こえているのか居ないのか呑気に饅頭を食している俺の耳の間を撫でたりしている。動物の扱いに慣れているのか、細く柔らかい指で触れられると俺はこそばゆい気持ちになった。
陽気が良くなったせいで、気持ちまで浮ついてしまっているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
「お前狗神っていうのかい?だったらすんごい評判悪いよお前。悪戯ばっかりするって」
環がやや眉をさげて困ったように狗を見下ろしている。
その通り、俺が狗神なのだと俺は答えようとしたが、いかんせん狗の姿のままでは答えられないでいた。
「さっさと追い出しましょうよう……居着かれたら迷惑だし」
奥から聞こえたガキの言葉に反論もしたくなったが、俺は環の指をゆっくり味わうように舐めた。
「んん、何?私の身体はおいしくないよ」
環はそう言ってからからと笑ったが、いや、多分食べたらおいしいだろうと俺は耳をせわしなく動かし、体温を下げようと必死になった。
「お前、狗神ならご主人様は居ないのかい?誰かに造られた狗神じゃないのかなあ」
「悪い事をして回るんだから、きっと野生の狗神なんですよ」
「野生の狗神なんて居るのかね……呪術師が先に死んだとかかな。殺しちゃったとかかな」
環は今度はガキに手拭いを持って来させると、俺の饅頭の粉にまみれた口元を拭きながら小首を傾げた。
「こ……殺しちゃったんですかね」
俺は自分の知らない事を聞かれても、どうにも答える術もなくただ失礼な、と憮然とした。
俺はずっと忘れ去られてたんだ、使われた事は無いんだ。俺は環に本当の事を言いたくなった。環は俺の古い首輪に手をかけた。
「苦しくないかい。取って欲しいかい?」
苦しくは無いが毛に食い込んでいるので、はたから見たらきつそうに思うのかもしれない。今まで一向に外れる気配のなかった首輪は、環があれこれやっていると呆気ない程簡単に、外れて地面に落ちた。
「あ」
皆で口を開ける。
「なんだ、簡単だね」
環は俺の毛並みを整えてから、腕を伸ばして首輪を取り上げた。
「これ、お前はもう要らないよね?……裏に何か書いてあるね、なんだろ」
環が呟くのを聞きながら俺は胴を震わせて身体を離した。そのまま庭先に降りる。
「これ、預かっても良いかい?色々調べてみるから。八朔、これどっか置いといて」
「じゃあ、木彫りの熊にでもかけときますかね。あの置き場に困る熊」
この環という人間はどうやら、俺みたいな化け物について少し学があるらしい。ならば俺を使いこなすだろうか。俺は考えた。
俺は自分で判っていた。俺は狗神であるから元々使われる存在であって自ら考えて行動するモノではないため、自由になってもどうしたら良いかうろたえてしまう。
俺は環に身の上を話して、自分の身の振り方を一緒に考えてはもらえまいかと思った。今後ずっと悪の道に走り続けるのも正直疲れるし、段々と飽きてきた。それに、俺は環と会話というものがしてみたい。
側に居ると、胸がどうこうというより身体全体が浮き立つような、跳ね上がりたいような気分なのだ。首輪が外れたから、身体が軽くなったのとは違う。
こういうのは、どんな気持ちなのだろう。俺は適当な言葉が見当たらず、もどかしくなった。物事に名前が無いというのは、なるほど面倒なのだな。
「お前、どこに行くんだい?もう帰るの?」
俺が振り返ると環はずっと縁側からこちらを見ていた。もう帰るのかと問われても、俺には帰るところは無い。また山河を渡り歩いて、飛び回るしか無いのだ。
「なんだい、首輪を取って貰いたくて来たのかい。用が済んだらさっさと帰るんだね」
環が拗ねるように言うのを聞いて、決してそういう訳では無いのだ、と俺は必死で首を振った。
ずっとお前の側に居ると離れたくなくなってしまうし、色々と話したい事を練習しなくてはならないから、しばしの別れなのだ。
普段人間になる事が少ないため、俺はあまりうまく話せない。乱暴な言葉を使ったら、怖がられるかもしれないから……。
まあ、次に来た時に今のように屋敷に入れて、優しく相手をしてくれるかは判らないのだが、環が自分を見て甘い声をかけてくれるのを想像すると俺は胸がばくばくと鳴りだした。
「またおいでよー」
環の言葉に奥を見やると、ガキの顔面が蒼白になっていた。自分の主が自分みたいな化け物を気に入ったらしいのを悟った様子に、俺はいくばくかの憐れみを向けた。
環はたゆたうような仕草で手を振っている。あのさらりとした、柔らかそうな髪に似合う花を見つけてやりたいな。
俺は初めて、他人のために何かをしてやりたくなった。
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