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2 年越し蕎麦は、ほのかに苦い
「帰ろうかな。陽も暮れたし、大掃除も終わったしね」
つぶやいて、カウンターから立ち上がる。
二時間ほど前から、入口に鍵をかけていた。今日は、もう誰も来る気がしない。
背伸びして、首を回したとき。
なにか変な音がしているのに気がついた。
入口の引き戸、擦り硝子になにかがぶつけられている。
ぺちん。
ぺちん。ぺっちん。
ぼくは目を凝らす。ちいさな黒い影が地面から飛び上がって、硝子にへばりつこうとしているようにも見える。
「なんだろう」
近寄ってみる。
硝子越しに、はあはあ……と、息を切らすような音がしてくる。
怪訝に思って、引き戸を開けた。すると、焦げ茶色のボールみたいなものが「わー」と言いながら店内へ飛び込んできた。
びっくりして、床に転がった丸いものを見る。
あまりにも驚きすぎると言葉が出ないという話を聞いたことがあるけれど、あれは本当だと思った。
だって自分でも、絶句したまま両目が大きく見開かれているのがわかったから。
焦げ茶色のボールは、はじけた風船のようにぺったりと広がり、やがてのっそり立ち上がった。
仔リスのかたちをしている背中が、ぶるぶるっと大きく震える。
「い、いらっしゃい。こんにちは」
「ふん。客のことを忘れるなんて、ひどい店だ。森のみんなに言いつけてやる」
仔リスは鼻を鳴らしながら、ぼくへと真っ直ぐ身を向けた。今日も、なにかを脇に抱えている。
「忘れてなんかいないよ。ちゃんと声をかけてくれないと、わからない」
仔リスはキッと目を剥いた。どうやら、睨みつけているつもりらしい。
「何度も言ったよ。鍵が閉まっていたから、入れなかった」
ぷうっと仔リスの頬がふくらむ。
「ごめんね」
「動物なんだから聴力は優れているはずだろ」
「奥で掃除をしていると、聞こえないときもあるんだよ」
「退化しやがって。まったく」
ぼくは笑った。ちょっと憎たらしい物の言い方をする客だけど、まったく悪意がないことはよく知っている。
「なんで笑うんだよぅ」
ちいさな客は文句を言いつつ、カウンター上へと飛び乗ってきた。それから脇に抱えているものを、ちょいちょいと抱え直す。
ぼくは言った。
「どんぐりは受け取れないよ」
「ふふん」
仔リスは鼻をうごめかせて、脇のそれを広げて見せた。丁寧に広げたあと黙って、こちらを見つめてくる。
彼が持ってきたものを、まじまじと確かめた。どう見ても、これは本物だ。
「千円札と。それと五円玉だね? どうしたの」
「落ちてた」
「落ちてた、って。どこに」
仔リスは、ちいさくうなずく。
「道に」
「道って」
「夜明けに自動販売機の裏側を通ったら、落ちてたんだ。そんなに驚いたような顔をするなよ、よくあることだろう?」
ぼくは思わず、こめかみを押さえた。
「それって、あんまりよくないお金だと思うよ」
「んー」
仔リスの大きな瞳が、不安そうに動き出す。
「お、お蕎麦が食べたかっただけなんだよ」
「ここ、うどん屋なんだけど」
「知ってるよ。でも、ふたり分くらいはあるんだろ?」
「よくわかったね」
「大晦日だし」
「そうだね」
相槌を打ちながら、仔リスの肩のあたりを撫でてやった。
「お蕎麦は出してあげる。でも、お金は元にあった場所に返しておきなよ」
「うん」
仔リスはうつむき、ぼそぼそとなにかを言った。ぼくは尋ねる。
「なにかあるのかい」
そっぽを向いたままで、言葉が返ってくる。
「きっときみは、ひとりだろうと思ったから。顔が見たかったんだ」
「ありがとう」
仔リスにお礼を言いながら、ぼくの目頭は熱くなる。
「ちょっと待っててね、今から作るから」
「よかったら一緒に食べない」
「よろこんで」
ぼくは用意に取り掛かった。仔リスは鼻をひくひくさせながら、ダシの匂いを嗅いでいる。並べた丼に、熱いダシを注いでいると、カウンターの客が話しかけてきた。
「きつねさん、どうだった。この一年」
「いいことも、あったけど。それ以上に、よくないこともあったかな」
「ぼくもだよ。信じていたものに裏切られたり、散々だ。そんな記憶だけで埋まる毎日はイヤだと思うけれども、どんな風に前を向いていいのかわからない」
「リスさんもですか」
「マッチって呼んでいいよ」
「マッチ?」
顔を上げると、仔リスは「えっへん」と胸を張った。
「暗闇にともす灯りを生む、細い棒だよ」
「知ってます」
「ママが付けてくれた名前なんだ。いいだろう?」
「いいですね。深い祈りを感じる、いい名前だと思う」
マッチの前へ、湯気がたつ蕎麦を置く。彼は箸立から器用に箸を取った。丼に口を尖らせて、ふうふうと息を吹きかける。それから目を細めて、美味そうに蕎麦を啜りはじめた。
「熱くないですか」
ぼくが言うと、大きな瞳をこちらに向けた。
「平気さ。ところで、きつねさんの名前はなんて言うんだよ。ぼくは名乗ったぜ」
「ケンです」
「なんの変哲もない名前だな、面白くない」
ぼくは笑った。その通りだと思っていたから。
「ですよね」
この前と同じように、並んで食べた。つめたい水を出してあげると、美味そうにマッチは飲み干してくれる。飲み終ったあと、ぼくの目をじっと見つめてきた。
「ケンちゃんさあ、倒れたときは倒れっぱなしでも悪くないと思うんだよ。ぼくは」
「そうかなあ」
ぼくは返事をしながら、指で鼻の下をこする。醤油と鰹節の混じった匂いがした。
「うん」
マッチの声が、続けて聴こえる。
「いろいろ、あるんだから」
「ありますよね」
ぼくは残ったダシの中に、七味唐辛子を振り掛けて飲み干した。
マッチは丁寧に千円札を畳み、中に五円玉を包んだ。来た時と同じように、脇に抱える。満腹だからだろうか、カウンターから飛び降りる仕草が、ちょっぴり重そうだ。
「じゃあ、また来る」
「はい。よいお年を」
ぼくは笑って手を振った。マッチは引き戸を閉めながら一度、大きく振り返る。
「今年の最後に、いい友だちができたよ。ありがとう」
「ぼくもです」
ひとり残された店内に彼の言葉が、いつまでも。ほんのり残っているような気がした。
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