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 丈作は、時々隠れて絵を描いている。  武はそれを知っていたが、触れない方が良いのだと思って、ついぞ聞かないことにしていた。  ある日、ふらりと丈作がいなくなって、皆で探していると、常盤が岡の上で丈作が画帳を広げているのを、武は見つけた。  常盤が岡は、矢板武と印南丈作が、那須開墾社の発足を、那須野が原の開拓完遂を誓い合った場所だ。ここに丈作が隠れているのを見つけられて、武はすこし誇らしく、そして丈作を愛らしく思う。 「丈作さんは、芸術の才があった方が良かったと思いますか」  背後から話しかけた武の方を見ないままに、丈作は鉛筆を動かす手を止めた。那須野が原をなめるように空気が動き、岡の下から風が吹きあがる。砂に交じって、若い草のにおいがする。 「才があったなら……この水路も田畑もなかったでしょうね」  岡の下には、開墾が進む那須野が原の美しい景色が広がっていた。青々とした稲穂。秋になれば穂が垂れて、満々と米が実るだろう。まだ、まだ一角だ。これから、この田畑は那須野が原全体に広がっていく。 「この景色は、丈作さんにしか描けなかった絵ですよ」 「はは、うまいことをいう」  丈作は画帳を仕舞って立ち上がった。  那須疏水は開削された。土地は水に満ちた。これから、こなすべき仕事は多いが、見通しは立った。那須野が原は不毛の土地から、水源を得て国有数の農地となろう。 「絵筆はそろった。まだそれだけですよ」  印南丈作が亡くなったのは、それから半年後、よく晴れた冬の日であった。
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