5人が本棚に入れています
本棚に追加
二
「葬儀諸掛の明細は、これで以上になります」
「はい。矢板さん、この度は、万事お世話になりました」
とめ夫人は書面を受け取ると、ふぅ、とため息を吐いて、遠くを見つめた。
丈作が亡くなってから、夫人も武も働きづめであったので、つかの間の沈黙は久しいものである。お互いに疲れから沈黙して、夫人はしばらく障子の向こうに視線を踊らせていたが、はっと気付いて、姿勢を正した。
「あら、ぼうっとして、すみません。夕餉でもいかがですか。簡単なものしかできませんが」
さすがあの印南丈作の妻である。商家として宿を切り盛りする女将の風格が、一瞬にして現れる。陰りやすい黒の着物でありながら、彼女からは未亡人としての寂しさは既に消えていた。
「いえ、ありがたいのですが、この後、村の者たちの慰労会なのです。皆、随分働いてくれましたから」
「ああ、そうですね。本当に皆さんにお世話になってしまって……そうだ、お酒を持って行ってくださいましね。あの人も、もう飲めないのだから」
夫人は手早く風呂敷に3本の酒瓶を包んで、武に持たせた。特段酒に強いわけではなかった丈作が、ちびちびと大事に飲んでいた酒は、瓶の中身が大半まだ余っているのに、もう飲む人がいないのだった。
揺れる瓶の中身を腕に感じながら、丈作は印南宅を後にする。一月の、那須野が原に吹く風は冷たい。遮るものがない平野の空気が、肌に強く当たる。
暮れなずむ日の赤さが、枯草に照って影を伸ばす。外套をぎゅっとしめて畦道を行くと、瓶が風呂敷越しに当たって甲高い音を響かせる。
「あら武さん、おかえんなさい、もうみんな盛り上がってますよ」
本社に戻ると、那須開墾社の面々や移住人たちが既に会して、酒盛りを始めていた。武の妻であるハマは卓の間をせわしなく回って、こまごまと世話を焼いている。
「色々すまないね。明日にはもう落ち着くだろうから。これ、夫人からいただいてきたの、お出しして」
「まあ良いお酒。私も、忙しい方が気がまぎれますから良いんですよ。ふふ、今日は奮発しちゃいましょうね」
ハマは酒を受け取ると、炊事場の方にパタパタと駆けていく。
印南丈作の死からもう六日が経つが、まだ皆の中で整理できていないのか、あるいは、葬儀の忙しなさの中に置いてきた感情がようやく現れはじめたのか、皆、無理に明るく振る舞っているようだった。
「矢板さん、お疲れ様です。ささ、一献」
「はいはい。どうも」
武も酒には強い方ではないのだが、社の連中に握らされるままに杯を開けた。
まだ、武の感情も忙しなさの中に置き忘れているままだ。
明治維新の当時から二十余年、公私の細大無く志を同じくした男が、死んだ。残された事業を切り盛りしていくのは矢板武であると、既に状況は決まっているのに、まだ気持ちは追い付かない。
「もう一杯、もう一杯」
宴は、夜半まで続いた。どんちゃん騒ぎも徐々におさまり、皆がめいめいに帰り始めて、ハマも後片付けを翌日に回して帰ってしまって、しんと静まった本社に武は一人残った。
月も見えない、新月の夜である。
暗い那須開墾社の、社長の席に、静かに武は腰掛けた。ここは、今まで印南丈作が座っていた席だった。布張りの椅子の、背もたれに体重を預ける。久しく主人のいなかった椅子は、ぎいと軋んだ。首を反って天井を仰げば、木目の一つ一つに年月が刻まれているようで、酒にほてった頭が冷えていく。
「丈作さん」
呟いたことばは、闇に溶けて、消えた。
最初のコメントを投稿しよう!